フュルギエ50歳、夏。~噂の人物~
「熊の化け物、ですか」
「はい。黒き大熊が馬を操り駆ける姿を多くの者が目撃しており、人々は先の大雨に続く災厄の前触れではないかと恐れております」
それは、司祭のいない小さな村からの陳情だった。いつまた恐ろしき化け物が現れ、襲い掛かるやもしれぬと信徒が怯えているために、中央教会から助祭なりを派遣して不安を祓って欲しいと。
曲芸団でもあるまいに、熊が馬に乗るなど聞いたことがない。おおかた、毛皮の外套を着た人間を見間違えたのだろうが、それが無辜の民でなく、野盗の類や敵国の偵察部隊ならば厄介だ。
「恐ろしき姿を取る存在が必ずしも悪とは限りません。他にも熊を見た者がいないか、近郊にも範囲を広げて調べて貰えますか?」
そうして目撃された場所と証言を集めて地図に落とし込めば、王都から「静謐な祈りの館」の方角へ向かい、その後、北進してふつりと途切れ。再び北の方角より王都近くまで来て、そこで目撃情報は終わっている。
―これは…。このまま調査をすすめれば困ることになるやも。
目撃された“熊の化け物”の正体は判らず終いだが、辿っていけば王都の近郊に潜んでいることになる。これが明るみになれば民衆は恐怖によって混乱に陥るだろう。
「さて…」
どうするべきかと悩んで、足が向いた先は大聖堂。当然のことながら、太陽神の像は変わらずそこに居て、人々を見下ろしている。いい気なものだと八つ当たり気味に見つめていると、田舎の村で呑気に平和に過ごしているだろう姿が重なった。始まりの女神と冥府の女神と。熱心な、或いは野心溢れる教会関係者に露見すれば、あらゆる手段を講じて手中に収めようとするだろう、家族と共に。
「冥府の、女神」
神話に、熊の姿をとる存在を思い出す。冥府の神と縁の深い、月の女神だ。その従者である精霊の中には、熊の姿をとる者がいた。“化け物”ではなく“神の遣い”ならば、恐怖心は薄れ、また、祝福を得ようとその姿を探す者も出て来よう。結果、監視の目が強化され、もしもその正体が良からぬ企みを持つ者であったならば、その企てを阻止出来る。
「此の度王国に現れし奇怪なる熊は、月の女神の従者なり」
*****
「大司教様の清き御心、神々にも届いておられる」
「そうでしょう、そうでしょう」
女神が人の子として降臨するという神託を王宮に伝えて戻ると、王都近郊の街や村の教会からも司祭以上の人間が集まっていた。口々に発せられる褒め言葉には曖昧な笑みで返す。
デライト侯爵家の人間に呼ばれて馬車に乗り、着いた先はまさかのコメルシー家だったし、そこで「親戚が遊びに行くからよろしくね」くらいの、実にのんびりした神託が下された。ついでに、デライト家もキエフルシ家も娘が誕生するそうだ。おめでとう。そのついでのついでに、熊の化け物の正体も判明。狩猟を趣味とする貴族が飾っているような、頭も付いた立派な熊の毛皮を、「暖かいし、丈夫だから」という理由で被って王都に出て来たとかで、現実は想像の上の上を行った。父親とタイプは違うが、姪も何を仕出かすかわからない人間だ。まあ、巫女だし、神の使いという点では、あながち間違いでもないか。
「大司教様。神託は、どのように下されるのでしょうか?」
「突然に。しかし、それが真に神の声であるかは、頭ではなく体と心で感じられます」
姪は、気持ちが高揚すると冥府の女神と繋がりやすくなるらしい。それで有用な神託を得ることもあるが、大抵の場合は世間話のような内容だとか。
「なるほど。私も、感じてみとうございます」
女子修道院の院長は神妙な顔で頷く。彼女は貴族の生まれだが熱心な信徒で、家族の反対を押し切って神の道に進んだと聞く。それだけに、始まりの女神の正体を知れば、大事になりそうだ。
「ともあれ。大司教様がいらっしゃれば、憂うことなく過ごせると、信徒は口々に噂をしておりますよ」




