カザンディビ31歳、夏。~噂の人物~
「はぁ…」
「だいぶ疲労が蓄積しているようですね」
「も、申し訳ありません。スュトラッチ医師」
「構いませんよ。定刻よりも少し早めですが、今日は急ぐ用もありませんから、休憩にしましょう」
直々の調薬指導と農学研究発表会での威厳ある振る舞いで、祖父本人もスュトラッチ家も評判を上げた。それに伴い浮上したのが、謎の人物の存在だ。引退後は頑なに弟子を取らなかった祖父が、研究発表会の会場に、自らが見出した薬草園管理の長ガレンの他にも一人の男を帯同していたという。男は、帽子を目深に被っていて、服も決して安物ではないがまるで体に合わないもので、誰かから借りたのだと思われた。要するに公的な場に相応しい衣服を持たぬ“賤しき者”である。それが自身の上役に取り立てられるかもしれないと、身分の高い人間は嫌悪と警戒を、低い者は嫉妬と羨望をもって、その謎の人物が誰かを特定すべく躍起になっている。助手の疲労も、それに起因するものだ。
「スュトラッチ医師は、気になりませんか?」
「そうですね。孫として、老齢の祖父に生き甲斐となる存在が出来たことは大変に喜ばしく思います」
そもそも。
スュトラッチ家が代々、公明正大な医師であり続けられるのは、基本的に他者への関心が薄いからだ。貴人であろうと卑しき民であろうと呪われし民であろうと、その生まれた身の上に関わらず等しく無関心であるのが、スュトラッチの血筋の特徴と言って良い。我らが惹かれるのは、研究者が心を揺さぶられるのは、ただ、尽きることのない好奇心と知への渇望を一瞬でも満たしてくれるものにのみ。
それを知っていればこそ、王家はスュトラッチ家に身分と財を与えたのだ。もしも万が一にでも、困窮によって王家に仇なすことのないように。
「スュトラッチ医師の高邁なるお心は、我らのように俗人にはとても、真似のできぬものですなあ」
言葉とは裏腹に鼻で笑うように言い放ったのは、次期侍医局長の地位を狙う、遥か昔に王家に連なる者を貰い受けた家柄の、侍医の一人。今はたかが伯爵家でしかないスュトラッチ家が侍医局長の地位にあるのを快く思わない人間の一人だ。言外に滲むは「前当主の指示1つで次期当主の地位が危うくなるかもしれない男」への侮蔑だが、敢えて気付かぬように、いつもの笑みを貼り付ける。
「優秀な人材が増えることは、何にも代え難いものですから」
共に頑固で気難しい性格の祖父とガレンが連れ歩く男について調べてみると、なんのことはない。多くの人間が気にもかけないか、記憶の隅にぼんやり留め置く程度の存在でしかない“若いメイド”こそ、彼らが連れ回したかった本命だ。そうでなくては、子供嫌いの老人2人が、わざわざ年若い人間を側に置くはずがない。
祖父が後継に相応しい人間を見出したのなら、この柵だらけの家を謎の人物に押し付け、死体を偽装するなりして行方をくらまそうとも考えたが、それは淡く儚い夢で終わった。身の丈に合わない野心を抱く人間であろうとも、あの老人2人を籠絡できるほどの逸材ならばスュトラッチ家を任せられると踏んだが、相手は野心どころか世間並みに言うところの肉親の情でもって、あの2人と自然と向き合うことのできる、稀有なる存在。裏表のまったくない親愛の情で、天賦の才で、天然ものの愛嬌で、虜にしてしまっている。そんな人間を、わざわざ苦労の多い地位に就ける筈がないし、また、自身もそれを望まない。
「ご休憩のところ申し訳ございませんスュトラッチ医師。また、例の助手が」
「そうですか。解りました」
肩書と後ろ盾の人間の権力でもって医務局の助手に収まった男装の令嬢が、また何事か騒ぎ出したようだ。
この国の者ではない人間に、教えられる事項など限られている。その上、本人は他の助手を見下して碌に仕事をしないどころか、当たり散らしたりと妨害する有り様。プライドだけが肥大して、知識も実力も、医療従事者としての基礎さえ見についていないのに、雑用を拒み問題ばかり起こす自称王子に、引き受けた局長も匙を投げたとみえ、このところは日に何度も呼び出しが掛かる。
―もう、いい頃合いでしょうね。
白衣を羽織り、内ポケットを外から触れてみる。カサリと微かな音がして、それが確かに其処にあることを主張する。これは、スュトラッチの天才が生み出した作品の、模倣品。そう、名付けるならば『天の審判』。




