メティヴィエ・キエフルシ27歳、夏。~暁の女神〜
そこは、白い世界だった。
辺りには青や赤や緑や、色とりどりの光がサラサラと舞い、遠くから神を賛美する少年少女の歌が聞こえる。青い空にふわふわと浮かぶ真白な雲の中にいるような、柔らかな温もりに包まれて。心配も恐れも悲しみも、すべての憂いが消えてゆく。
濃く甘やかな霧の向こう。慈愛に満ちた眼差しで此方を優しく見守るのは。その姿は。
―――暁の女神。
*****
「少しは、休めたか?」
見覚えのない白い天井に戸惑っていると、澄んだ声と赤い瞳が覚醒を促す。そうだ、ここは中央教会の聖堂の貴賓室。そこで隣に座る女性の膝を枕に、はしたなくも、意識が混濁するくらいには、泥のように眠ってしまったらしい。
「なんてこと…!ああ、ご無礼を」
「今すぐ休むよう命じたのは、わたしだよ。命令に従ったのに謝罪なんて、ふふ、おかしい」
暁の女神と見間違えたその美しき女性は、よりによって異国の、それも緊張状態にある国の王族だ。羞恥と恐怖と少しの怒りが全身に巡り慌てて体を起こそうとするのを、小さな笑顔とそっと髪を撫でる手に制される。
「ですが、、、」
「今ここには、他に見ている者もいないんだ。少しくらい寛いだって誰にもわからないよ」
悪戯っぽい響きを孕んだ愉快そうな声に眼だけを動かし周囲を確認すれば、共にいた筈の彼女の夫と娘の姿はなく、生家から連れて来た信頼の置ける侍女は背筋を伸ばして椅子に座ったまま目を閉じている。
「あの子を叱らないでくれるか?こう見えて、寝かしつけが得意なんだ」
その言葉に、何故ここに居るのかを思い出す。
学院生時代から仲の良い妹分で、現在は若き侯爵夫人であるマーシャルを通じて、彼女の夫ナウルから情報があった。それはキエフルシ領で発生している蝗害に関する吉報で、加えて「もしかすると既に解決しているかも」という、なんとも奇っ怪な報せで。急ぎ面会して聞けば、出立前に息子を抱き締めた際に感じた違和感が、蘇ったのだ。息子がお守りにしていた鳥笛は、母の手元にある。では、彼があの時、胸に下げていたのは?答えは自明である。
何にも変え難いこの大恩、先ずは礼を言うため面会の要請をと心は急くも、キエフルシ家には現在、夫人と妹のみで、主人も嫡男も不在である。主のいない間に、表向きはずっと格下の、男もいる家に赴く訳にはいかない。要らぬ醜聞は公爵家のみならず相手方への迷惑になろう。そこで、厳重に根回しと人払いをして中央教会にて面会を願ったのだった。
「きちんと食べて、眠れているか?」
「え、ええ」
メティヴィエと侍女ラノー、そして親子3人だけがいる貴賓室。キエフルシ家の窮状と、それを救った事への感謝を述べれば、真っ先に返って来たのはそんな言葉で。
それから女神は娘に目配せして、娘は父の手を引いて部屋から出て行った。その意図を問うより早く歌声が聞こえ、そこから、記憶はぷつりと途切れている。
「一人で、よく頑張ってきたな」
親が子に向ける、くすぐったくなるくらいの、無償の愛情を向けられるのは、いつぶりだろうか。少なくとも淑女としての教育に加え、王女の護衛としての教育が始まった頃には、絶えていた。
「悲しい夢は、わたしが持っていってあげる。だから、もう少しおやすみ」
額に唇が触れると、深い水底に落ちていくような、浮遊しているような、心地よい揺らぎと共に、意識が再び遠のいてゆく。
ああ、そうか。この御方は、譬えるならば海のよう。深く広く、どれほど与えようと尽きることのない、愛の女神。




