ダルドワーズ28歳、夏。~悪夢の始まり〜
「いや〜、今日も太陽神様は絶好調だなァ」
キエフルシ公爵家の領地で、農夫は伸びをして空を仰いだ。王国の食糧を支える一大穀倉地帯であるこの地は長雨の被害が比較的少なく、例年よりも半月ほどは遅れたものの麦の作付も無事に行われ、今は麦踏みの作業の真っ只中。
「このまま晴天が続いてくれりゃあ、今年も豊作だな!」
「ああ!ウチの姫様がお妃様に決まったって言うし、めでたいこと尽くめだな」
清々しい風に汗を乾かす農夫達の耳に、ぶぅんと、低い唸り声に似た音が微かに届いた。
「おい!向こう見てみろ!」
「なんだありゃ?!時期外れの雷雲か??!」
「それにしちゃ様子がおかしい!!」
「向こうの畑にも知らせてくる!」
慌てふためく人々を嘲笑うかのごとく。空が、黒く染まる。
*****
「あーもう!あんの豚野郎どもがぁぁぁ!!」
王国軍の全部隊員を対象にした衛生講習会に参加した部隊員は、第三部隊の執務室に戻るなり例の如く怒り心頭で雄叫びを上げ、癒やしを求めて元野良猫を抱き上げる。その姿を哀れに思ったか、猫は迷惑そうにしながらも逃げ出すことはない。
「よく我慢したよ」
「面と向かって言わなくっても耳に入っただけで不敬罪だの侮辱罪だの、牢にぶち込まれかねねーからな」
部隊を越えて身分を越えて、なんて高尚なお題目は結構だが、第一部隊所属の“高貴なお家柄に生まれながら理解ある人間”を自認する連中は「お前達平民は低脳な猿だがお前らだけは特別に人間の仲間に入れてやる」という態度で接してくるものだから、腹立たしさも一層際立つというもの。まだ「お前ら野猿は人間様の目に触れるな」という態度を崩さない連中のほうが、堂々と距離を置ける分、幾らかマシだ。
対外アピールの為の必須事項とはいえ部隊員のフラストレーションは溜まりまくり。此れでは作戦遂行にも支障をきたしてしまう。
「曹長」
ダルドワーズは首にハンカチーフを巻いた猫を抱く部下に呼び掛けた。第三部隊の掟の一つで、氏名で呼ぶ時はどれほどダラけてもふざけても良いが、階級で呼ばれた時は立場相応の対応をするよう定められている。
「は!」
「曹長は、人間が野猿や豚に喩えられるを侮辱と感ずるか」
上官から部下への命令としての質問である。嘘偽りは赦されない。
「はい!答えは是!であります!」
「重ねて問う。猫に曹長の称号を与えるは、侮辱と感ずるか」
彼の太い腕の中でゴロにゃんと身を捩っているのは、ねずみ駆除の特命を帯びた、曹長の階級を非公式に賜っている猫。ミセス・チーフ・マウザー。
「いいえ!答えは否であります!」
「なれば、人間を動物に喩えるは侮辱であるが、仮に豚を“卿”と呼ぶのは個人の自由であるな」
ダルドワーズの発言の意図に気付いた部隊員から声が漏れ、続けて顔を見合わせニヤリと笑い合う。
「大尉!私は豚を尊敬しておる故、今後は豚を“卿”と呼ぶことを宣言致します」
「覚えておこう」
「俺は醜男にしようかな」
「それじゃー俺は馬鹿にすっかな」
要は嫌いな人間への呼び方に異なる意味を付与しただけなのだが、少しでもガス抜きになればそれで良い。対症療法に過ぎなくとも、どうせ第一部隊との交流は一時のこと。此方側の意識を変えて無駄な精神負荷を取り除く方が先決だ。
「ふむ。ならば、今後はなめくじを“閣下”と呼ぶがいい」
朗々たる声を響かせて突如現れたのは、国防大臣“閣下”マロウ伯爵であった。思わぬ重鎮の登場に皆驚きつつも立ち上がり、立礼をとる。
「楽にせよ」
「マロウ大臣に置かれましては、お耳汚し、失礼致しました」
「否。此度は先触れもなき訪問、礼を失したるは我である」
緊急会議に呼ばれて不在のダダールに代わり今居る者の中で最も階級の高いカリソンが謝罪するのをマロウ伯爵は手で制し、それから曹長が抱える猫の頭をひと撫でした。あくまでこれは個人的な面会である、ようだ。しかし、気になるのは先程の言葉。
なめくじはのろのろした動きから、怠け者、のろまの比喩によく使われる動物だ。何事か重大な事態が起きたらしい。
「キエフルシ公爵領にて、蝗害が発生した」




