フルン26歳、夏。~ホーム・スクーリング〜
「そんなの、ひどい…」
クリスタルに似た澄んだ声が震え、アメジストの瞳が揺れる。憤りと少しの不安とが綯い交ぜになった心の内を宥めるように小さな手をきゅっと握った。それを頼るように握り返されれば、肩を抱き寄せたくなる衝動をなんとか抑え込む。
「この件は、ぼくに手伝わせて欲しい」
「でも……」
叔父様の特製クリームとマッサージを受けて育った手は滑らかで温かくて、控えめながら瑞々しくも華やかで安心感を与えてくれる香りがした。この香りを腕の中に閉じ込められたら、どれほど幸福だろうか。思わず指にキスをする。
「他に適任者はいないと思うよ。…従兄であり、教師でもある、ぼく以外には」
*****
「礼法では“異性とは適切な距離を保って接するように”と教えておきながら、教師として申し訳なく思うけれど」
マドレーヌに伝えたのは、品行方正で智徳に優れた紳士淑女の教育を目的とする王立学院の、表立っては言われないけれど大多数の人々が知っている、公然の秘密について。
王立学院は、謀反を防ぐ人質として各領主の妻子を王都に留め置いたのが起源である。その際に貴族の在るべき姿を学ばせて反逆の牙を折ると共に将来の重臣を育成したわけだ。国土の拡大によって王都が移り、跡地が王立学院となった現在もそうした意義がないこともないけれど、平和な世が続いた今となっては「身分相応の大規模な見合い会場」というのが主な役割になっている。
「いえ、なんとなく予想はしていたので…」
そうだろうね、きみは聡い子だから。
社会の仕組みや悪どい思惑なんかには敏いのに、どうして身近な人間の恋慕には気づかないのかな。
「子息や令嬢と呼ばれる人々は大抵、ほんの小さな子供のうちなら男女の別なく遊ぶけれど、本格的に教育を施される年頃になると男女が濫りに慣れ親しんではいけないと教わるんだ。でも、それだと生涯の伴侶を選ぶのに困るでしょう?」
「こまる?」
「考えてみて?これまでずうっと家族以外の異性とは親しい付き合いをして来ていないんだよ。それなのにいきなり見知らぬ異性を充てがったって、うまくいく筈がない」
「確かに。突然連れて来て『この相手と子を成せ』なんて、馬でも拒否しますもんね」
ねえ?ぼくはそんな直接的なことは言っていないよ?あながち間違いでもないからいいけどね。
「だから王立学院ではダンス等の授業を通じて男女間の適切な距離感を教えると同時に、密かに心の成長も図るんだ」
「心の成長?」
「異性に対する興味。言うなれば“恋心”だね」
「恋心、ですか?」
「そもそも異性を好ましいと思う気持ちがなければ、幾ら家のため国のためと言ったって、家庭を築くのは難しいから」
「なるほど〜」
基礎科と習得科に分かれているのも、身分相応の相手を見つけるため。高位貴族家ともなれば家庭教師をつけて学ぶのが一般的なので、高位貴族と下位貴族や上流階級の平民では自然と入学年齢が異なる。
ごく稀に高位貴族の子女であっても、家が困窮したりナウルの異母弟のような理由から家庭教師を用意できない者が基礎科に入学することもあるけれど、それはそれで、無理に高位貴族と縁を繋ぐよりも良いのでは?という見解になる。また下位貴族家や平民が全寮制の習得科に進むのも、優秀な者を早いうちに囲いたい家からは歓迎されている。
「それで…。その、成婚率と言いますか…」
「例年なら今の時期で1、2割程度。だけど今年は学院祭という絶好のアピールチャンスがあったから、きみの同期入学生はもしかすると半分くらいは既に縁談が纏まっているかもしれない」
「そんなにですか?!ええっ?皆さまいつの間に?!!」
「目立つ成績を修める学院生の噂は子供から親へすぐに広まって、お茶会や昼餐会なんかのお誘いが来るんだ。そうした交流を続けていって選ぶのが一般的かな」
「お誘いですかあ……そっかぁ」
いつかの出来事を思い出したのか。落ち込んでいるよね、ごめん。でも、きみへのお誘いの手紙は、きみの元に届かないだけで、きっと山ほどあったと思うよ。何せ異母兄妹の噂が立った後はスュトラッチ家にも届いたくらいなんだし。
まあ、全て養父と義兄が暖炉の焚き付けにでもして跡形も残っていないだろうけど。ぼくら兄弟も全て握り潰したしね。
さて。軽めの事実を語るのはここまで。ここからは社交界の闇の部分に踏み込むから、ちょっと怖がらせるかもしれないな。
「もちろん社交界デビューしてから婚約相手を見つけることも多い。でも、それでも異性に対する恋心は、特にご令嬢ならば成人前に身につけておくべき必須科目なんだ」
「必須科目?」
「そう。社交界にはデビュー直後の若い娘ばかり狙って偽りの愛を捧げ、自分の意のままに操ろうとするタチの悪い男も居てね。初めての恋だと舞い上がったご令嬢が相手の言うなりになって淑女の尊厳も実家の財産も何もかもを奪われる悲劇が、たびたび起こるんだ」
「!!!!!」
菫色の瞳が大きく見開かれる。息を呑む音が聞こえる。
「狡猾な者ほど証拠を残さないし悪辣な行いをする。それでいて女性の扱いは巧みだから、男女の触れ合いに慣れていない若い淑女は好餌にされてしまう」
「そんなの、ひどい…」
きみの揺れる感情に付け入るぼくを、受け入れてくれるかな?それとも怒るかな?でも、こうでもしないと意識なんてしてくれないでしょう?
握り返してくれた手の、細く長い指にそっと唇を落とす。ぴくりと肩が震えて、びっくりした顔でぼくを見て、それからちょっとだけ考えて、こくりと頷く。
「たしかにフルンお兄ちゃんほど社交が得意な人もモテる人も、そうそういなそうです」
「うん。ぼくも大切な妹がうっかり悪い男に騙されやしないかと思うと心配で堪らないからね」
「はい!ご心配おかけしないよう頑張ります」
頑張らなくっていいよ。いま目の前に居る悪い男に騙されればいい。そうだよ、狡猾な者ほど証拠を残さないし、悪辣な行いをする。けれど、ぼくがきみに捧げる愛の言葉は本物で、それだけに飾り気のない拙い言葉になってしまうんだ。
「じゃあ、これからよろしくね?ぼくの愛しい女」
「え、今からもうですか?」
「こういうのは、始めるのが早いに越したことはないからね」
「なるほど勉強になります。こちらこそよろしくお願いします。ええと、、、かわいい人?」
「マドレーヌにとって、ぼくは“可愛い人”なんだ?」
「え?あ!大人の男性にとんだ失礼を。すみません」
「いいよ、初めて言われて驚いただけ。うん、いいね」
美しい云々はよく言われるけれど、可愛い人は初めてで。でも悪くない。何よりも、普段は語ってくれない心の内が知れたことが嬉しい。
「でも男性へのちゃんとした褒め言葉って、あるんじゃないかと思うんです」
「それは社交の場に出れば嫌でも学ぶよ。目下の急務は、きみがうっかり他の…、悪い男にドキドキしないように、慣れることだから」
「ううん、なんだか社交って難しいです…」
「こればかりは場数を踏むしかないからね。今は諦めて?」
そうだよ。ねえ、諦めてよ。諦めて、ぼくのものになりなよ。そうして、ぼくの愛に溺れればいい。




