カザンディビ31歳、夏。~傾国の悪女~
「お帰りなさいませ、カザンディビ様」
スュトラッチ家の王都邸。
上級使用人がずらりと並んで主人を出迎えるのは以前からも行われていたが、王立学院の夏季休暇に伴い戻ってみれば皆、恭しくも動きの一つひとつがきびきびとしていて、以前にはない心地良い緊張感が漂っている。天才の生みの親であり自身も非凡な才の持ち主でもある人間が、この邸の正しき主人たる祖父が、滞在していたからだろうか。
それとも――。
「お帰り、兄さん。待ってたよ」
蝶が空を舞うように、ひらりと現れた弟は。以前とは比べ物にならない程に感情豊かになった弟は。北の薬草園で叔父が見せたものに、そっくりの笑顔を浮かべていた。
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「本邸に、大量の本の置き場はあったかと思ってね」
「本?」
「お祖父様が北の邸の、叔父様に与えた蔵書を処分するんだ。医学薬学関連の貴重書もあるようだから、兄さんも要るでしょう?」
「ああ、それならば…」
部屋の隅に控える使用人に指示を出し部屋を空ける算段をつけながら、弟を横目で見る。長い足を組み、カップを持ち上げる所作は実に優美で、教育の行き届いた貴族家出身の使用人ですらその姿を目に焼き付けたいと熱望し、なんとか抗っているのが解った。
圧倒的な美はもはや暴力だ。真正面から受ければ手向う気力もすっかり奪われ、ひれ伏し、全てを肯定せざるを得ない。
「そうだ。暫く休職するから、もしも急ぎの用事があればマリア商会に託けて欲しいな」
「しばらく、とは?」
「そうだなあ。周りが静かになるまで、かな」
華々しい女性遍歴の陰で人嫌いの弟は、時が来ればさっさと隠居を目論んでおり、その資金を得るため投資家の真似事もしていた。沢山の親切なご婦人から知り得た、内情をよく知る者達にしか解らない、未公開の情報を元に判断を下すのだから失敗のしようがない楽な稼業と言えよう。だから貯えの心配はない。が。
「……噂を、聞いたのか?」
「ぼくらの大切な従妹を勝手に主役に据えた、打ち切り必至な下作ならね」
怒気を孕んだ笑みはいっそ艶やかで、全身から匂い立つ濃密な色気に当てられた使用人は声もなく卒倒した。
ああ、何も知らない者は幸福だ。これは、これこそが祖父の、叔父の、正しきスュトラッチの怒りの発露。癇癪持ちの子供のように大声をだして暴力を振るう祖母や父にはない威厳。ただそこに居るだけで漂う気高さ。失われた天才の偽物を押し付けられた弟は、皮肉にもその呪縛から解き放たれてヘルゲート様そっくりになっていく。或いはそれは、心から愛する者が出来たせいか。
「フルン」
「ぼくは。ぼく達は何もしないよ。優しい彼女が知れば悲しむから」
「夜会に出るのか?」
「しばしの別離の挨拶にね」
顔や血筋や家柄だけで渡り歩けるほど、貴族の世界は甘くない。男女の交わりがあれば尚更だ。それを涼しい顔で器用に熟してきた弟ならば、言葉ひとつ仕草ひとつで他人を意の儘に動かす事など造作もないだろう。
「それじゃあ、運搬の用意が出来たら連絡するよ」
使用人達の視線と心を奪いながら去っていく弟に、思う。
―我らが愛しき従妹以上に“傾国”の似合う女性は居ないと、本当は、お前も解っているのだろう?
人の命を躊躇なく奪うことの出来る一方で平時は高い倫理観を有し。表に出ることを嫌う一方で他人の心の内にするりと入り込み深く根を下ろしてしまう。それは無垢な子供が持つ残酷な無邪気さに似て、罪深きを知りつつも周囲は思わず手を差し伸べたくなってしまう。彼女と長く接する者ほど愛着が形成され,庇護欲がそそられる。
子供の頭で考えつくような、上流階級の者には珍しくない、ありふれた悪事だけの“傾国の悪女”よりもずっと恐ろしい存在。それが、マドレーヌ・コメルシーだ。
「あれは本当に繊細で美しい毒でした。我が淑女」
“旅先で急死した“伯爵が呷ったであろう毒は、未だに何か判明していない。肉眼的な所見で言えば、例えば口腔内の出血や嘔吐の跡、紅色を呈した死斑などから毒殺であるのは間違いない。「朝に水を飲んだところ吐き出す程に苦かった」という使用人らの証言から、その毒はアデイユだろうと思われた。しかし、その毒が入っていただろう小瓶からは無害の液体しか採取されず、アデイユと同定することができなかった。
ゆえに表面上は「旅の疲れによる急な死亡」で落ち着き、持ち込んだ多数の薬物は「我が家の預かり知らぬ」「けれど我が父が招いた客人の持ち物だそうだから」、伯爵家の威光と多額の迷惑料を各所にばら撒いて収めたようだ。要は、懲罰金と賄賂である。
人の世は、地獄の沙汰も何とやら。罪に見合う大金を積めば黒い鴉も白くなる。けれど、スュトラッチの天才は、人の世の理を超える、天災だ。
―彼らが負った罪に相応しい罰の重さを、貴女はもう下しているのでしょうか。




