ナウル・デライト26歳、夏。~傾国の悪女~
その男が王宮に来ていると聞き、執務室を飛び出した。王立学院が夏季休暇中なのを良いことに彼は夏至祭以降も社交を放棄して王都に帰って来ていなかった。約束もないため行き違いを覚悟したが、暫くぶりに飛来した“麗しき黄金の蝶”を目撃した人々があちこちで噂するものだから、見つけるのは容易であった。
「フルン」
元気だったかの挨拶よりも。何をさて置いても、聞きたいことがあった。
「何か、あったか?」
キーバー領からの帰路、突如、言い知れぬ不安感に襲われた。その場はなんとか取り繕ったが、その夜、ひどく魘されて、目覚めた後も恐怖で体が震えた。体の不調はその時ばかりで、気のせいとも思われたけれど、脳裏には1人の少女の面影がちらついて。
「ああ、そうか。ナウルもだったね」
金に縁取られた菫色が揺れ、一瞬の逡巡の後、口角だけを上げたアルカイク・スマイルを見て。その薄い唇の隙間から漏れるだろう言葉が絶望でないことだけを、祈った。
*****
「下位貴族や平民階級を中心に、“傾国の悪女”の噂が一人歩きしているとか」
「傾国どころか救国を相手にか。無知とは恐ろしいな」
「救国の悪女か。ふむ、それはそれで良い二つ名だ」
法務大臣をはじめ数人が持病の悪化で職を辞し。物分かりの悪い者は不正の証拠を突きつけて王宮の出入り禁止、実質的な更迭に追い込み。軋轢を避けるため派閥のバランスに配慮した人事となったが、国の中枢は以前より遥かに風通しが良くなった。
それを創り上げた人間達は、皆、陰の功労者に対する誹謗中傷にぶちギレている。職権濫用と言われようとも叩き潰す勢いで、ぶちギレている。
「キーバーの」
「ああ。父親は有能であるが息子には継がれなんだ」
「斯様な噂が流れれば終わりだな」
「なに、あの程度の地ならば充分に換えがきく」
噂を積極的に広めている1人はキーバー家の親しい間柄で、嫡男の親友という。ごろつきを使ってキーバーを威しているなどと言って悪女の非道を喧伝しているが、逆に言えばキーバー領の治安の悪化を触れ回っているようなものだ。保養地として人を集めるキーバーの痛手となろう。
「夜会で広まれば、あの地も終わるな」
早晩、夜会でも“傾国の悪女”の噂を面白おかしく語る人間も出てくるだろう。何せ、噂の出所は彼女の学友と彼女に仕えたという使用人。同じ冤罪でも、誰かわからぬ者が発した言葉と身近な人間からの言葉では信憑性が段違いだ。
「デライト侯爵。いかがなされた?」
「あ、ああ。いや、」
王宮の一室で催されている非公式な合議で、ナウルはフルンから聞かされた”内緒話“を思い出していた。
彼女はいま精神負荷の少ない日常を過ごしていて、このまま無事に大人になるのを皆が見守っている。フルンは少しでも長く彼女の側にいるため王立学院の教師を退職する手続きをしにきたが、慰留されて休職扱いになったという。来年にはミケーネ王族の一員として一家の御披露目も予定されていて、元より祖父の通訳として帯同するためにも退職か休職かをするつもりだったから丁度良いと笑って。
「彼女…かの御方の出自について、ここに居る皆と共有しておきたい」




