マドレーヌ14歳、冬。~料理に愛と科学を〜
2、3、5、7、11、13、17、19、23、29、31、37、41、43、47、53、59、61、67、71、73、79、83、89、97…
脳内で素数を数えて心を落ち着け、もう一度、目の前にあるソレと向き合う。うん、やっぱり前世で見覚えがある。たしかポンペイ展だったな。
「…ちょっと、焼き過ぎましたかしら」
ナウルの妻マーシャルが本気で料理がしたいらしいので、ナウルの好物のひとつで包丁を使わずに済むフレンチトーストを付きっきりで教えた。結果、出来上がったのは、炭化したパン。焦げたというレベルではない真っ黒さ。途中の完全アウトな匂いにも立ち上る煙にもめげず、ここまで躊躇なく焼き続けられるのは逆に見事である。
「発言をお許しいただけますでしょうか、デライト侯爵夫人」
「マーシャルよ。それに今は貴女が先生ですから、なんでも仰って?わたくしは今、とても難しい問題を教えていただいているのだもの」
「…ではお言葉に甘えまして。マーシャル様はとても慎み深く軽々しいお振る舞いはなさらない方とお見受け致します。此度のことも、どれほど加熱すれば召し上がる方の害にならないかとお考えになった故のことかと、存じます」
言葉を選びながらゆっくり伝えれば、ぱちくり目を大きく開いた。服もドレスも大人びているけれど、ふんわり可愛らしい春の色味が似合いそうなタイプだ。
「ええ。夫や子供達に何かありましたらお家の一大事ですもの」
「とてもご家族を愛していらっしゃるのだと、存じます。ですから、まず衛生面から考えることに致しましょう。多くの食中毒菌、つまり腹痛を起こす原因となる目には見えない生き物ですね。これらは熱に弱いとされ65〜90°Cで死滅します。肉や魚や卵はおよそ60°C以上で固まり色が変化し始めますので、この変化を目安にして…」
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「心配なら見に行ってみればどうだ?」
ピザパーティの途中で突然「料理を教えて欲しい」といい、そのままマドレーヌの手を取ってコメルシー家の厨房に消えた妻を心配そうに待つナウルにダルドワーズが薬草水片手に声をかける。
「いや…妻の名誉のために、私は行くべきではない、と思う」
「誰だって失敗して覚えるものだろう」
「それはそうだが…。学院生の頃、クッキーを失敗したと言って随分と落ち込んでいたのでな」
「懐かしいな。そっか、彼女なんだね、あの岩?の製作者」
当時、婚約者だったマーシャルが学友に教わったのだと言って初めての手作りクッキーを味見もせずにフルンに渡し。後から歯が根元から折れそうな失敗作だったと気付いて酷く落ち込んでいた。それでナウルが代わりにフルンに謝るも、贈り物はすべて中を検めることもなく週末に纏めて処分していると聞き、慌てて返却を求めた若い日の記憶。山と積まれた中から探し出したソレが真っ黒でガチガチに固まったナニカだったことに衝撃を受けた若い日の記憶。
「…………そうだ」
悪気はないが眩いばかりの美貌を隠そうともしないフルンと苦々しい思い出に舌打ちせんばかりのナウル。当時を思い出せば、同期生ならではの出来事が色鮮やかに蘇る。だいたい良い思い出ではないけれど。
思い起こせば。
マーシャルはそこまででもなかったが、フルンのファンクラブに所属する女学院生の中には婚約者そっちのけで盛り上がる者も少なくなかった。フルンの方はそうした熱視線を飄々と躱して過度な接触を避けて居たと今なら理解できるが、当時はそれどころではなく。結果、フルンは諸々の理由からの妬み嫉み怨みを一身に受けていた。
「大丈夫かなぁ?」
「何がだ」
「マドレーヌは理詰めで考えるタイプだから、きっちり理論で教えると思うんだよね。それはあまり女性には向かない、、、ことが多いんだけれど」
ナウルの脳裏に村での記憶が甦る。正確には、あのポルックスを困惑させたあの出来事を。
「すまないが少し!外して…」
「まあ!マドレーヌさんたら」
「いいえ、きっとお似合いになりますわ」
きゃっきゃと女学院生のような笑い声と共に、少女と少女の様な妻が戻ってくる。いつ振りだろうか、晴れやかで心から楽しそうな妻の表情。
「わたくしが作りましたの。“黄金パン”よ」
ことりと置かれた皿の上。焼き色も強く少々形が崩れて不恰好だけれど、口に入れればしっとり甘く柔らかく。間違いなく“黄金パン”だった。
「とても美味だ」
「まあ!よかったわ。先生が良いとこうも違うものね」
妻が後生大事に抱える紙の束は気になるが、女二人が何の話で盛り上がっていたのかも気になるが、婚約者時代を含めても初めての手料理だ。じっくり味わおう。
「マーサ、マドレーヌは夫人にご迷惑をお掛けしてなかった?」
「はい。お嬢様は食品衛生学の講義をしていらっしゃいました。特に食中毒に関わる諸注意をなさっておいででした」
…じっくり味わおう。ナウルは一心にカトラリーを動かした。




