⑦
一番古い記憶は何かと質問されたら、私は保育園の及川先生のことを思い出す。私がまだ森野由梨だった頃の記憶。
彼は、若くて、カッコ良くて、優しかったので、園児から人気だったけど、私は苦手だった。園児へのボディタッチが多く、園児を自分の膝の上に載せたり、ハグしたりと距離感が近い人だったからだ。
園児達は人気者の先生に触れられて嬉しそうだったが、私は同じことをされると、とても怖かった。それなのに、及川先生は、別の子と遊んでいても、私の元に来ることが多かった。周囲の子には私が及川先生にえこひいきされているように見えていたのだろう。
ある日、教室で一人残って絵本を読んでいると、及川先生がやってきた。
「由梨ちゃん、何読んでるの?」
そう言うと、先生は床に座り私を膝の上に乗せた。私は嫌だったが、先生に反抗することは悪いことだと思っていたので、何も言えずにいた。
すると、先生は私の耳元に口を寄せた。
「由梨ちゃんは本当に可愛いね。先生は、由梨ちゃんが、一番大好きだよ。」
そう言って、私のお腹に腕を回して抱きしめてきた。私は何が起こっているか分からず、怖さと気持ち悪さで、動けずにいた。
すると教室の外から、声が掛かった。
「及川先生見つけた!一緒に遊ぼうよ!」
同じクラスの美奈ちゃんだった。彼女は元気で明るく、人気者で、いつも友達に囲まれていた。無口で、暗く、友達のいない私とは対照的だった。
「今行くよ。じゃあまたね、由梨ちゃん。」
及川先生はそう言って私の頭を撫でると、美奈ちゃんの元へ歩いて行った。及川先生が出て行ってからも、しばらく私はその場から動くことができなかった。
翌日、美奈ちゃんとその友達たちから声を掛けられた。
「ねえ、由梨ちゃん、いつも及川先生と仲良くしすぎじゃない?ずるいよ。」
人気者の先生が私に構うのが気に入らなかったのか、彼女たちは私を責めてきた。
「そうそう、だって私が及川先生と一緒にいても、由梨ちゃんの方に行っちゃうんだもん。」
「なんで、由梨ちゃんばっかり及川先生と遊んでるの?」
口々に言われて、思わず私も言い返してしまった。
「そんなの…なんでか分からないよ。私は、及川先生、嫌なのに。」
言った瞬間、彼女たちの表情が変わった。
「何それ?気に入られてるからって調子に乗らないでよ。もう、由梨ちゃんなんて知らない。」
私が人生で数え切れないほど言われてきた「調子に乗ってる」という言葉を初めて言われた瞬間だった。女子のリーダー格だった美奈ちゃんに嫌われた私は、それ以来クラスの女子全員から無視されるようになった。これ以上問題が大きくなるのが嫌だった私は、及川先生が近づいきたら、全力で走って逃げるようにした。逃げ続けていると及川先生のターゲットは別の子になったのか、構われることはほとんどなくなった。
小学校に入ると、男子からはちょっかいをかけられ、その様子を見た女子からは敬遠され、私はいつもひとりぼっちだった。厄介なことにクラスの人気者の男子に気に入られることが多く、彼らに話しかけられるたびに、周囲の女子に眉をひそめられた。私は彼らに話しかけられても必要最低限しか話さず、距離を近づけることはなかった。それでも、女子達の陰口が聞こえた。
「ちょっと顔が可愛いからって、森野さんばっかり。ずるい。」
「無口でつまんないし、ぼっちじゃん。ほんと、顔が良いだけで得してるよね。」
「絶対調子乗ってるよね。自分が一番可愛いから当然って思ってそう。」
もちろん、そんなことは全く思ってない。でもそう言ったところで状況が良くなる訳がないことを、保育園の時点で学んでいた。だから私は何を言われても黙っていることにした。こんな毎日だったので、私にとって学校は居心地が悪かった。
私は学校が終わると、母が働くお店"寿司たなべ"に帰るようにしていた。私の家は母子家庭で、母は夜営業が始まるまで働いていたので、子供だけで留守番することがないように、お客さんが少ない放課後は、お店の座敷席にいさせてもらっていたのだった。
「由梨ちゃん、お帰りなさい。真由ちゃんもう帰ってきてるよ。」
軒先で掃除をしていた、たなべの女将である沙織さんが声を掛けてくれた。沙織さんは母の幼なじみで、旦那さんの貴史さんと2人でお店を切り盛りしていた。
「ただいま。」
沙織さんに返事をしてから私は店の中に入った。
「お帰りなさい。」
片付けをしていた母が声をかけてきた。
「おかえりー。」
奥の座敷席で宿題をしていたお姉ちゃんは、漢字ドリルから目を離さずに言った。私もお姉ちゃんの隣で宿題を始めた。しばらくして宿題終えたお姉ちゃんは勉強道具を片付けると、
「友達と遊んでくるから。夜ご飯までには帰ってくる。」と宣言して出かけて行った。
お姉ちゃんも美人で何かと注目を浴びることが多かったが、私と違って気が強く、しっかり者で、何を言われても言い返す強さがあったので、味方の友達も多かった。私は、お姉ちゃんの強さに憧れる気持ちもあったが、同時に同じことはできないという諦めの気持ちもあった。
宿題を終えると、私は、図書室から借りてきた本を読み始めた。
「由梨も、遊びに行ったりしなくていいの?」
大っぴらには言わないが、母は私が友達と遊ぶ姿を見せないのを心配していたようだった。一人も友達がいないことを伝えたら、母が悲しむと考えていた私はいつも、
「今日、読みたい本があるからいいんだ。」
と答えていた。
「由梨は本当に本が好きね。」
母はそう苦笑いしながら、仕事を続けた。読書が好きだったのは本当だ。遊ぶ友達がいなくて、暇なので、時間を潰すために読んでいたのも事実だが、本を読んでいる間は、その物語に入り込めて、現実の嫌なことを、忘れることができるから、好きだった。
しばらく物語の世界に没頭していると、お店の扉が開いた。
「ただいまー。」
柔道クラブの練習から、タイちゃんが帰ってきた。
「お帰りなさい。」
私と母は返事した。タイちゃんこと田辺太一郎は、寿司屋を切り盛りしている田辺夫妻の一人息子で、私たち姉妹とは幼馴染だった。姉とタイちゃんは、1学年違い、タイちゃんと私は2学年違いで、兄弟のように育った。タイちゃんは小学生5年生の時点で身長が160cmを超えており、近くの柔道クラブのエースだった。寡黙で、ポーカーフェイスで、体格が大きく、見た目は熊やゴリラのようで怖いが、とても優しかった。男性に苦手意識を持っていた私が、怖がらずに接することができる数少ない男の人だった。
「由梨、これいる?」
タイちゃんはそう言って私に、封筒を渡してきた。
「何?開けていい?」
タイちゃんが頷くのを見て、私は封筒を開けた。中身は図書カードだった。
「わぁ!図書カードだ!どうしたの?」
図書カードを前にして、目を輝かせながら私は質問した。
「この前の大会の副賞。俺、本読まないけど、由梨なら使うでしょ?もったいないし、あげるよ。」
そう答えた、タイちゃんの左手は、優勝のトロフィーが握られていた。
「本当にいいの?嬉しい。ありがとう。何買おうかな。」
もらった図書カードを前にして、私は顔がにやけていたと思う。嬉しそうな私を見て、タイちゃんは微笑んでいた。
私が1歳半のとき、親子3人で母の故郷であるこの町にやってきた。私は父の顔を覚えていないが、病気で亡くなったと母は言っていた。母が見せてくれる写真の父に私はよく似ていた。シングルマザーになった母を心配して、沙織さんは自分の店で働いたらどうかと誘ってくれたらしい。こうして私たちは"寿司たなべ"の隣にあるアパートで生活を始めた。沙織さんはもちろん、旦那さんである店主の貴史さん、そしてタイちゃんの協力のおかげで私たち姉妹を育てることができたのだと、母は常々言っていた。
自分の家族と田辺家の人々の前では、私は俯いて生活せずに済んだ。学校が辛くても、他に居場所があるから、頑張って学校へ行けたのだ。
小学6年生の3学期、恐れていた事態が起きてしまった。同じクラスの女子に人気でサッカークラブに所属する水沢隼人君と、くじ引きで同じ美化委員になったのだ。係が一緒だとどうしても一緒に行動することが増える。美化委員の仕事である花壇の水やりは、毎日放課後にやらなければいけない。話す回数が増えるのを避けるため、美化委員になった初日に私は水沢君に提案した。
「私、クラブにも入ってないし、習い事もしてないから、水やりは私が担当するよ。水沢君はクラブ行ってきて大丈夫だから。」
「え、そんなの良いよ。俺もやるから。いいから、一緒に行こう。」
水沢君に言われ、仕方なく私は2人で水やりに向かった。私はなるべく水沢君と目を合わせず、話しかけられたことだけ答えた。
「森野って、なんであんまり人と喋んないの?」
水やりをしながら、質問された。
「…話すの苦手だし、緊張するから。」
男子には好きになられないために、女子には嫌われないために話さないようにしているとはさすがに言えず、私はそう答えた。
「俺、ずっと森野と喋りたいって思ってたよ。森野、よく本読んでるじゃん。俺も本読むの好きだからさ、本の話したいなって。」
「…私、人に話せるような立派な感想とかないから、きっとつまんないよ。」
私は、どうか、この会話を誰にも聞かれていませんようにと願っていた。
「つまんないかどうかなんてわかんないじゃん。この前読んでた江戸川乱歩の怪人二十面相どうだった?」
私は驚いて、水沢君の方を見てしまった。
「なんで、知ってるの?」
「古い本だし、俺以外に読んでる人みたことなかったから、森野が教室で読んでるの見て、感想聞きたくてうずうずしてた。」
彼はそう言うとニコッと笑った。その顔を見て、これはモテるはずだと思った。
彼はそれからも根気強く水やりのたびに私に話しかけてきた。私はそっけない返事をしていたが、本の感想はついつい話してしまった。本の話をできる人がいなかったので、嬉しかったのだ。
「森野はどう思った?俺はまさかあの場面で、裏切られるとは思わなくてさ。」
「確かに。まさかああなるとは思わなかった。」
水沢君との本の感想の言い合うのは楽しかった。私は友達と話すってこんな感じなのかなと思い始めていた。
しかし、そんなに上手くことが運ぶわけはなく、水沢君と私が水やりのたびに楽しそうに話す姿を見たクラスの女子に呼び出された。
「ねぇ、森野さん。沙也加が水沢君のこと好きなの知ってる?」
スクールカーストトップの杏奈ちゃんとその取り巻きたちに私は囲まれていた。沙也加ちゃんはいつも杏奈ちゃんの隣にいる子で、この時点でもう泣いていた。
「...私、水沢君のこと、好きとかじゃないから、大丈夫だから...。水沢君もきっと本の話ができるのが楽しくて私に話しかけてるだけだし...」
彼女たちの圧に押されて、私は震える声で答えてた。
「じゃあ!ちゃんと水沢君に、好きじゃないって言ってよ!森野さんと水沢君が話してるの見ると、私が惨めな気持ちになるのわからないんでしょ?!」
沙也加ちゃんは泣きながら叫んだ。そのまましゃがみ込む沙也加ちゃんを、杏奈ちゃんたちが慰める。
「沙也加がかわいそう...森野さん、早く水沢君に好きじゃないって言ってね。」
女子たちに睨まれて、私は頷くことしかできなかった。泣きたいのはこっちだよと正直思った。
その日の放課後、水やりのとき、水沢君がいつもの様に話しかけてきた。私は校舎の陰から杏奈ちゃんたちがこちらの様子を伺っていることに気づいていた。
「森野、この前読んでたあの本、」
「水沢君。...もう本の話するのやめよう。私、人と話すの得意じゃないし...ちょっと疲れちゃって...ごめん。」
私が水沢君の話を遮って宣言すると、水沢くんは驚き、悲しそうな顔をした。
「え、何、急に...何かあった?」
「いや、あの...」
上手くすぐに答えられずにいると、水沢くんは校舎の物陰にいた女子たちに気付いたようだった。
「もしかして、誰かに俺と話すなとか言われた?」
「いや、そうじゃなくて、」
「俺は、自分が話したい人は自分で決める。俺は森野と話したい。森野と話してると楽しい。もっと、森野のこと知りたい。」
まずい、この状況で告白でもされたら、私は明日から、クラスで女子たちからどんなことを言われるかわからない。
「水沢君、お願い、やめて、」
「俺、森野のこと、好きだよ。」
その瞬間、沙也加ちゃんは大声で泣きながら、校舎の向こう側に走って行った。杏奈ちゃんたちは、沙也加ちゃんを追いかけた。
「...やめてって言ったじゃん。」
終わった。こうならないように気をつけてたのに。本の話が楽しくて、油断してしまった。
「水沢君は同級生で同じ美化委員なだけです。気持ちには応えられません。」
水沢君が何か言おうとしていたが、私はその場から走って逃げた。




