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 高校の卒業式の日、学校から帰り、部屋に戻ろうとしたら、タイちゃんに呼び止められた。

「由梨、ちょっと俺の部屋来れる?…話したいことがあって。」

タイちゃんの部屋に入り、ベッドに2人で座った。タイちゃんは緊張しているようだった。

「急にこんな話したら、驚くかもしれないけど、俺、両親が不妊治療して生まれたんだ。結婚してからなかなか子供ができなくて、病院に行ったら、治療しないとほぼ妊娠は不可能って言われて、そのまま病院に通って、なんとか俺が生まれたって、母さんと父さんから聞いた。原因は父さんのほうで。遺伝的なものだって聞いたから、この前、俺も病院に行って調べたんだ。そしたら、俺も同じ無精子症っていう状態らしくて、父さんと同じか、それよりも子供ができにくいって言われた。

 だから…もし、結婚して、由梨が子供を欲しいと思っても、なかなか授かるのは難しいと思う。病院に通わなきゃいけいないし、きっと由梨の方が身体の負担も大きいと思う。ごめん。」

タイちゃんはそう言って、俯いていた。

私はタイちゃんの手を握った。

「…私は、タイちゃんがいればいい。子供が欲しいからじゃなくて…タイちゃんとこれからも一緒に過ごしたいだけ。それで充分。」

私がそう言ってタイちゃんを見つめると、タイちゃんはほっとした表情を浮かべた。

「由梨、ありがとう。」

そう言ってタイちゃんは私の手を握り返してくれた。

「もし、由梨が、子供が欲しくなったら、俺はいくらでも頑張るから、我慢しないで言って欲しい。」

 そう言うと、タイちゃんは立ち上がって私の前まで移動して、跪いた。ポケットから小さな箱を取り出して、蓋を開けた。中身は指輪だった。

私が驚いて目を丸くしてると、タイちゃんは話し始めた。

「由梨も高校を卒業するし、ちゃんとケジメを付けたくて。父さんにも、涼子さんにも、真由ちゃんにも約束したから。さっきの話は、ちゃんとこういう話をする前に言っておいた方がいいかなって思って。

…由梨、大好きです。俺と結婚してください。」

 私は驚いて、そのまま固まってしまったが、じわじわとプロポーズをされたのだという実感が湧いてきた。嬉しくて涙が出てきた。

「タイちゃん...本当にありがとう。嬉しい。私もタイちゃんが大好きです。よろしくお願いします。」

私がそう答えると、タイちゃんはホッとしたような笑顔を見せてくれた。

こうして私は田辺由梨になった。


 寿司たなべで働く日々は穏やかで幸せだった。時々、デリカシーのないお客さんに、子供がいないことを指摘されることもあったが、沙織さんがすぐ諫めてくれたので、傷つくことはあまりなかった。仕事中は、厨房に立つこともあるので、結婚指輪をしていないと、常連以外のお客さんにナンパされることもあったが、店主が夫だと伝えると、すぐに引き下がってくれるので気が楽だった。

 私は、タイちゃんと沙織さんの3人の小さくて幸せな世界で私はずっと生きていきたいと思っていた。


 私がきっと、人生で忘れることのない日。

 それは、短い秋が終わり、冬の気配を感じさせる肌寒い日のことだった。

「あ、しまった、牛乳切らしちゃったか。」

夜営業の前に、食材を確認していた沙織さんが言った。

「あんまり使うことないもんね。」

テーブルを拭いていた私は、沙織さんが持つ、賞味期限が切れてしまった牛乳を見た。

「そうなんだよねー。ただ、今日の夜、谷崎さん達が来るから、ないと困るな。」

谷崎さんは、数ヶ月に1度お店に来てくれるご家族で、まだお寿司が苦手な5歳の勇治君のために、いつもサービスで牛乳を出していた。

「じゃあ、私買ってくるよ。まだお客さん来ないし、17時半予約だよね?」

時計を見ると、ちょうど17時だった。

「ありがとう。由梨ちゃんお願い。」

私は付けていたエプロンを外し、薄手のコートを羽織って、玄関まで向かった。

「いってきます。」私が言うと、

「いってらっしゃい。」厨房で食材の下ごしらえをしていたタイちゃんと、沙織さんが応えてくれた。

 外に出ると、冷たい風が吹いていた。そろそろ厚手のコートも出しておいた方がいいなと考えながら、歩いて15分のスーパーに向かった。牛乳を買った帰り道、いつも人通りの多くない、静かな道が、なぜか騒がしかった。

 たなべに近づくにつれて、増えていく人達に、胸騒ぎがして、私は走り出した。人混みの先は寿司たなべだったが、いつもの光景とはまるで違った。


 お店の厨房に1台の車が突っ込んでおり、ガソリンに引火したのか、大きな炎に包まれていた。私は目の前の光景が信じられず、そのままお店の中に入ろうとして、野次馬の1人に止められた。

「危ない!」

「いや!いや!タイちゃん!沙織さん!」

 私はそのまま叫び続けた。遠くでサイレンの音が聞こえてきた。私は気を失い、目が覚めると病院のベッドの上だった。


 寿司たなべは全焼し、焼け跡からは車の運転手の遺体と、2体の遺体が見つかった。タイちゃんと沙織さんなのは明らかだった。

 事故を聞いたお姉ちゃんは私の元まですぐに駆けつけてくれた。何もできない状態の私に代わって、ありとあらゆる手続きをしてくれた。

私は2人の死が信じられず、ただ呆然としていて、涙も出なかった。


 事故を起こした運転手は、お店の常連の亀井さんという85歳のおじいちゃんだった。少し頑固だけど、優しくて、たなべの味を気に入り、いつも車で通ってくれていた。奥さんを3年前に亡くしており、離婚して出戻った娘さんと2人暮らしをしていた。たまにランチに来た娘さんが、「お父さんが免許を返納してくれない。」と困っていたのを、私は思い出した。

 警察の調べでは、駐車の時にアクセルとブレーキを踏み間違えてお店に突っ込み、そのままガソリンに引火したということだった。


 私が抜け殻のような状態だったので、お葬式は家族葬で済ませ、姉ちゃんの住む家にそのまま身を置いた。

 亡くなってから初めて知ったが、タイちゃんは自分に死亡保険を掛けていて、自分が死んだら、私が毎月18万円をもらえるようにしてくれていた。タイちゃん名義の貯金も想像以上の金額が残されていた。遺族年金に加え、沙織さんの死亡保険、火災保険も下りた。だけど、心身ともに疲れ切った私が、一人で寿司たなべをもう一度開店させることは、不可能だった。私は寿司たなべ閉店し、土地も売った。

 手元には十分すぎるお金が残ったが、私は抜け殻のようになっていた。


 しばらくして、亀井さんの娘さんが弁護士と一緒に尋ねてきた。私はとても人前に出られる状態ではなかったので、お姉ちゃんが対応してくれた。お姉ちゃんから聞いた話によると、亀井さんの娘さんは、家に入るや否や土下座して謝り始めた。自分の父親に免許証を返納させられなかったばかりに、事故が起きてしまったこと、それによって2人が死んでしまったことをは 泣きながら謝り続けたらしい。彼女からは賠償金の申し出があり、弁護士との話し合いの結果、3000万円の賠償金の支払いが決まり、毎月5万円、私の口座に振り込むと言ってくれた。


 私はお姉ちゃんの話を聞きながら、私はずっと他人事のようだった。亀井さんの娘さんを恨めたら楽だったかもしれない。だけど、事故の前に接していて、彼女も亀井さんも良い人であることを私は知っていた。それに免許を返納しなかった高齢者によって起こった事故ということで、娘さんに匿名の誹謗中傷が殺到していることも聞いていた。


 大切な人達がもういないことが信じられなくて、悲しむこともできず、誰かを恨むこともできず、私は毎日何もできなくて、ただ寝込んでいた。

 そんな私を心配して、お姉ちゃんは私に必ずご飯を用意してから仕事に出かけた。でも、私はそのご飯も十分に食べられず、日に日に痩せていった。そんな私をお姉ちゃんは、辛抱強く声がけして、ひたすら見守り続けてくれた。


 ある夜、私は布団の上に座り、自分でも気付かないうちに「死にたい。」と言っていたらしい。すると、お姉ちゃんは私を抱きしめて、泣き始めた。

「お願い…。死なないで…。由梨が死んだら、本当にどうしたらいいか分からない。みんないなくなっちゃう。由梨は、本当に辛いと思う…でも、お願いだから、私だけ残して死なないで…。耐えられない。」

お姉ちゃんがこんなに泣く姿をみたのは、お母さんの病気を知らされたとき以来だった。そのとき私は、やっと気付いた。私だけではなく、お姉ちゃんも、タイちゃんと沙織さんを亡くした悲しみに耐えていたことに。

「…お姉ちゃん。ごめんね…。もう言わないから…ごめんね。」

私はそう答えて、お姉ちゃんを抱きしめ返した。2人で朝まで泣き続けた。タイちゃん達が死んでから、私は初めて泣くことができた。


 事故以来、私はお姉ちゃんの家で過ごしていて、お姉ちゃんはいつまでも居ていいと言ってくれたが、それはできなかった。なぜなら、事故の前にお姉ちゃんは婚約していたが、事故の後、私がこんな状態になったので、結婚を先延ばしにしていたからだ。自分のせいでお姉ちゃんに迷惑を掛けるのが心苦しかった私は、事故から半年後にお姉ちゃんの家を出ることにした。


「由梨。良介も、まだしばらくは大丈夫だって言ってるし、無理して出て行かないでいいよ。心配だし。」

 良介さんはお姉ちゃんの婚約者で、とても優しい人だ。一度会ったことがあるが、容姿だけではなく、お姉ちゃんの全てを受け止めて結婚を決めたと感じさせられた。

「ありがとう。でも、いつまでも頼ってばかりじゃいられないし。…お姉ちゃんとの約束はしっかり守るから。」

 お姉ちゃんとは、毎日連絡すること、週に1度は直接会うこと、心療内科に通うことを約束した。


 こうして私は誰も私のことを知らない町で生活を始めた。

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