#1 朝拝
「ナツキ」
名前を呼ばれて目が覚めた。
こざっぱりとした六畳間に、障子を通して入ってきた朝の光が部屋全体に溢れかえっている。
ここが月姫神社の一室だということを思い出すのに少し時間がかかった。
隣では小さな白蛇のつづらがとぐろを巻いていて、俺が起きたのに気づくと「おはよう」と言った。
「ナツキ、少しは元気になった?」
「ありがとう。おかげさまで昨日よりは」
「それは良かったよ」
つづらが首を気持ちよさそうに伸ばした。
時計は六時半。太鼓の音が響いてくる。
和箪笥の中に納められていたブルーのシャツとグレーのセーターに袖を通し、黒のジーンズを履いた。
スマホはやはり、圏外のままだ。
電子マネーユーザーの俺は、ここへ来て無一文となってしまった。
──家族との突然の別れ。
俺がいなくなった『常世』では、今頃大騒ぎになっているだろう。
神隠しに遭ったとか、家出したとか思われているに違いない。
それにしても、行方不明の原因が女子にフラれたから、というダサい話になっていたら困る。目撃者も何人かいた記憶があるし。
俺はスマホをポケットに突っ込んだ。
──過ぎたことをくよくよ考えていても仕方ない。
今は現世に適応していくことを考えるのが先だ。
⛩⛩⛩
つづらを肩に乗せて部屋を出ると、拝殿へ通じる渡り廊下があった。
そこにあった雪駄を履いていったん境内に出て、昨日春祭りが行われていた拝殿へ回る。
桜の花が舞い落ち、ピンクに染まった参道には提灯や屋台がまだ残り、花火の後のような一抹の寂しさが残っている。
拝殿には紫の袴姿に鮮やかな緑の狩衣を身に纏った宿禰さんと、巫女装束姿の美月さんがいて、二人で神事を行っていた。
太鼓の音と早朝の冷たく引き締まった空気に意識鮮明となってゆく。
「あれは何の儀式かな」
「朝拝と言って、朝のお参りだよ。神様に『祝詞』というめでたいお言葉を奏上して、お祓いをして、神殿を清めるの。その後は神様に食事のお供えをするんだ」
「毎朝?」
「うん。神社って結構大変なんだよ。神様がおられるから気軽に留守もできないしね」
「そうなんだ。俺には無理だな……」
つづらが見ていろと言うので、拝殿の外から朝拝の様子を見学していると、宿禰さんが俺に向かって手招きをした。
明るい光の差す拝殿に入ると、檜の良い香りに包まれた。
「さて、夏輝くん。この現世で生きていくには、まずは悪い物の怪から身を護ることが必要じゃ」
宿禰さんに折りたたみ式の椅子を勧められ、おそるおそる腰を下ろすと、祈祷が始まった。
神前には米、酒の他に昆布やするめ、筍や果物などの山海の幸が供えられている。
宿禰さんが、俺の頭上で白木の棒に細長い和紙を幾つも束ねた大幣を振る。
ふわふわとして心地よく、心が澄んでくるような気がした。
そして、最後に宿禰さんの笛に合わせた美月さんの舞の奉納があった。
扇と鈴を頭上に高く掲げ、祈るようにして鈴を細かく振る彼女。その鈴の音に、心が洗われる。
思わず引き込まれてしまうほどに、美しい舞だった。
祈祷が終わると、宿禰さんが紫の地に金色の月の神紋が入った絹の御守を授けてくれた。
「ここでは多くの穢れにさらされ、無数の物の怪と出会うことになる。この御守があれば、ある程度は回避できるじゃろう。ただ、時間が経つと消耗するから、一日の終わりにわしの所に持っておいで」
「ありがとうございます」
御守を首から掛けた。
心身が綺麗になって、自然と背筋も伸びる気がする。
「ちょっと待っていておくれ」
宿禰さんが社務所に入っていった。
何かを探すような物音がした後、宿禰さんが手に古い木箱を抱えて戻ってきた。
木箱の中には、古い巻物が納められていた。
「我が月姫神社に伝わる千年前の巻物じゃ」
美月さんも隣に並んだ。
巻物には十二単姿の女性と、衣冠束帯姿の男性が描かれており、背後には金色と赤色の円が描かれている。
──月と太陽。
「はるか昔。ここ鳳凰の地には月姫命と日彦命という男女二柱の神がおられ、恋人同士であった。しかし、今から千年前に日彦様がこの『現世』と瓜二つの『常世』という別の世界を作り、出ていってしまった」
自分の根幹が揺るがされかねない事実に、頭を殴られたかのような思いがした。
「常世が現世の複製……? そうなると、俺の存在も誰かのコピーという事になるんじゃ……」
「安心しなさい。わしの知る限りでは二つの世は並行し、並立しておる。つまりは、どちらも本物。千年以上の時が経ち、それぞれ別の歴史を辿って、今は瓜二つの世界ではなくなっているとしたら、君のそっくりさんが現世にいる可能性はほとんど無いと思われる」
その答えに安堵したが、まだ他にも気になることがあった。
「どうして日彦命は、恋人を置いて常世へ行ってしまったんですか?」
「ボクも分からないんだよ。お二柱の間のことはね」
つづらが悲しい顔になった。
この辺りは、あまり触れない方がいい話なのかも知れない。
「月姫命と日彦命は、古事記にも載っていない神様で、謎に包まれた部分が多いんじゃ」
宿禰さんが巻物を木箱に納めた。
「夏輝君、常世はどんな場所じゃったかな」
「そうですね。見えないだけかも知れないけど、物の怪や妖怪の類はいません」
「えっ。そうなんですか」
今度は俺の隣で、美月さんがショックを受けている様子だ。
「俺の住んでいた常世は、現世とは全然違います。国民全員に識別コードが割り振られていて管理されています。世界中の情報がインターネットで繋がっていて、大体の用事はそれで事足りますし」
「ふむ。常世とはずいぶんと技術の発達した世界のようじゃな」
「まるで未来の世界のお話を聞いているみたいです」
「色々便利だけど合理化されすぎて、俺は何かが足りないと感じています。伝統の文化や産業もずいぶん失われたと聞きますし、寺社を管理する人がいなくて廃社廃寺も進んでいますし」
「人智の及ばぬものを畏れ敬うことのない世界など、想像もつかん」
宿禰さんが嘆息をもらした。
それにしても、片方は情報技術が発達し、国家という巨大な機構に支配される管理社会で、もう片方は神や物の怪がそこかしこに息づき、呪いや祈祷に頼らなければ生きていけない精神的社会。
元は一つの世界だったという常世と現世が、何をきっかけにしてここまで違う進化をたどるものなのだろうか。