#4 月姫日彦─常世への帰還─ 後編
頼られることがなくなり、俺は生ける屍と化した。
社務の時間も何となく気まずい。さらに食事の時間には美月さんの料理が出るようになり、俺と宿禰さんは命の危険にさらされていた。
「夏輝くん、少し痩せた?」
学校から帰ると、俺と美月さんは制服姿のまま境内の雑草をむしっていた。
「ああ……最近ちょっと胃腸の調子が……」
雑草をゴミ袋に入れた瞬間、高い金属音のような耳鳴りがした。懐かしい気配に、体の中の神力がたぎる。
月姫命の神力で災厄を祓い誰かの縁を結ぶたびに、巫女神を護るたびに、徳の力で花が少しずつ咲いて鳥居の結界を押し開けるという桜梅桃李の木が光り輝いたかと思うと、『桃』の花が次々と咲き始めた。その優美な姿は、まるで天女の花衣のようでもある。
薄ピンクの『桜』、紅白の『梅』、濃いピンクの『桃』、そして純白の『スモモ』
──四種の花が光り輝いて咲き乱れるさまは、まるで天界にでも来たかのような非現実的な美しさだった。
人々が賑やかに往来する目まぐるしいあの日常。常世の懐かしい気配がすぐそこに迫ってくるのが分かった。
「桜梅桃李が満開になった……! す、宿禰さんを呼ばなきゃ」
動揺していたところに、いきなり美月さんが何かに呼ばれたかのように立ち上がった。
「『あの方』が呼んでる」
つづらを肩に乗せ、心ここにあらずといった様子で美月さんが月姫神社の裏山へと続く小さな裏鳥居の方へ向かっていく。
「どこへ行くんだ! 朧来てくれ!」
「こん!」
稲荷社から駆けてきた朧と合流すると、後を追った。
裏鳥居をくぐった瞬間、全身に寒気が走った。神聖で厳かな気配と、得体の知れない怖さを感じる。聞こえてくるのは、カナカナカナカナ……と鳴く、ひぐらしの声だけだ。
初夏だと言うのに不自然に冷たい風が吹き、木々の隙間から、黒々とした何かが見えた。
そこにそびえていたのは、高さ十数メートルはあろうかと思われる黒い巨岩だった。上部を苔と草で覆われ、周囲にはぐるりと注連縄が張りめぐらされている。
長年風雪にさらされてきたその表面は細かな穴がうがたれ、一面に流れ星のような白い筋模様と、月面のクレーターに似た白い幾何学模様が入っている。そして、岩の正面には、巨大なひびが縦に走っていた。
「何だ……これは?」
ただならぬ気配を放つ巨大な黒岩に圧倒されていると、美月さんが言った。
「『天磐船』。はるか昔、月姫様と日彦様はこれに乗って天からこの地へと降り立ったの」
その言葉に、まるで脳天を撃たれたかのような感覚に陥った。気の遠くなるような長い時間の中で、この岩の上空をぐるぐると回り続ける何千何億もの星の映像が見えるかのようだった。
「月姫様や日彦様が古事記や日本書紀に登場しないのは、宇宙から来た神様だからなのか」
「他の八百万神とはルーツが異なるの。この地の人々は、別の世界から来たお二柱を幸せをもたらす『来訪神』として大切にしてきたの」
新月の力であやかしを惹きつける月姫命と、創世の能力を持つ日彦命──他の八百万の神々とは何かが違うと思っていたが、これで全て納得がいった。
「あの方が……『日彦様』が私を呼んでる」
「日彦様が?」
嫌な予感に襲われつつも、美月さんに続いてさっきの裏鳥居をくぐると、目の前には月姫神社の拝殿ではなく、ガラスドームに覆われた巨大な広場があった。まばらに植えられたリゾート風のヤシの木に囲まれた人工池と噴水が整然と設置されている。少し離れた所には、白いコンクリートとガラスで出来た巨大な建造物があり、家族連れやカップル、学生のグループなんかが行き来している。
──普賢ガーデンモールだ。そこは奇しくも、桜舞う四月に俺が白川ゆりあにフラれた場所だった。やっと元の世界へ帰ってこられた、という懐かしさで喉の奥から涙が込み上げそうになる。どうやら夢ではないらしい。
「こ……ここは一体?」
うろたえた様子で辺りを見回している美月さんに、俺は言った。
「俺達、常世に来たみたいだ」




