#9 水はめぐり、命潤す 前編
美月さんが表情を硬くしてうつむいた。
「何故そのような顔をする? なぜ笑わぬ?」
俺が必死になって美月さんを助ける方法を考えていた時、美月さんの傍らにある草むらに何かが咲いているのが見えた。それは、一輪のピンクのユリの花だった。
俺はつづらを肩に乗せると、ふらつく足で一歩一歩地面を踏みしめてユリの元へと進んだ。
──ユリが咲きそう!
月姫神社の境内で、輝くような笑顔を見せていた美月さんを思い出す。今はもう、遠い昔のことのように感じるが。
「愛想のひとつも無いのか」
悪王子が憎々しげに舌打ちをして、美月さんの腕を引っ張る。俺はとっさにユリの花を手折ると、社へ向かう悪王子と美月さんの前に立ちはだかった。
「憎き神力使いめ。この期に及んでまだオレの邪魔をするか!」
悪王子の瞳から青い火花が散るが、予想通りすぐに神雷は飛んでこなかった。美月さんの手を取った状態で神雷を放てば、彼女を巻き込むことになるからだ。悪王子が彼女の手を離して神雷を放つよりも早く、俺はユリの花を美月さんへ向かって差し出した。美月さんが俺を見て、目を丸くする。
「私に?」
「うん。美月さんにとってこのユリは、特別な花だから」
ユリは美月さんのお母さんが好きだった花。そして美月さんのお父さんがプロポーズの時に贈った花だ。美月さんがそろそろと手を伸ばし、俺の差し出したピンクのユリの花を受け取り、そっと胸に花を抱きしめる。
「ありがとう。嬉しい」
可憐な花が咲いたかのような、彼女の心からの笑顔を久しぶりに見た。この笑顔を見るために俺は生きているんだ、と思う。信じられない、と言った様子で悪王子が眉根を寄せた。
「馬鹿な。豪奢な衣裳よりも、たかが野の花一本で喜ぶとでも言うのか?」
美月さんがうなずいて、ユリの花を胸にそっと抱いた。
「ユリは、私のお父さんとお母さんの縁を結んでくれた大切な花なの」
──刹那。
大粒の温い雨だれが一つ、二つと俺の頬を打って落ちた後、あっという間にどしゃぶりの雨に変わる。乾いた地面が一斉の雨を受け、白い霧が立った。雨に濡れる木々が、青さを増してゆく。
「雨だ」
やっと、やっと降ってくれた。
最後の最後に神の感情を突き動かすことで、雨乞いが成功した。雨を浴びながら、俺たちは感慨深い思いで、そこに立ち尽くしていた。嬉しそうに空を見上げていた美月さんが俺に向き直った。
「夏輝くん。雨乞いを成功させてくれて、最後まで私を護ってくれてありがとう……」
言葉の最後の方は、美月さんの声と月姫命の声が重なって聞こえた。彼女が瞳からこぼれる涙を指先で拭う。君のためならこの命を差し出してもいい。俺はその言葉を飲み込んだ。
「いや。みんなが死力を尽くしたお陰だよ」
俺の肩の上にいたつづらが、するりと美月さんの肩の上に移動した。
「良かったね、ミヅキ」
「みーちゃん、この貸しは高いからねー?」
巴が俺の両肩に後ろからのしかかりつつ、美月さんに話しかける。
「巴くんありがとう。お金は払わないけどっ……!」
土砂降りの雨の中、美月さんを囲んで笑い合っていると、浅沓を鳴らして宿禰さんが歩いてきた。
「おじいちゃん!」
飛びついてきた美月さんを、宿禰さんが無言で抱きしめた。




