#8 神格では敵(かな)わなくとも 後編
悪王子が鼻で嗤った。
「世迷言を。オレが消滅してしまったら、雨は降らないのだぞ? それに、月姫命の神格がこのオレに及ぶはずもあるまい」
「畏れながら。そのようなことはございません」
宿禰さんが立ち上がり、笏を捧げ持つと悪王子に向かい、深く一礼をした。
「はるか昔。わが先祖の蓬莱明光は、月姫命の神力にて貴方様を討伐いたしました」
今までは、祭神の悪王子神の顔色をうかがい発言を控えていた宿禰さんの表情からはためらいの色が消えていた。
「神格では敵わなくとも、神力が及ばないということはありますまい」
宿禰さんの言葉に、悪王子がぐっと言葉に詰まった様子を見せる。宿禰さんが、ゆっくりと悪王子の元へと歩いてゆく。
「お願いでございます。どうか、雨を。雨をお降らせください」
笏を捧げ持ち、深く頭を下げる宿禰さんに、美月さんと巴、そして俺が続く。
「お願いいたします」
「……末裔たちのしつこさは、明光譲りという訳か」
悪王子がひとりごちると、憎々しげに唇を噛んだ。
「悪王子よ。この山と民を守るのが、貴方と蓬莱明光との約束。約束は違えてはなりません。雨を降らせてあげなさい」
金色の神々しい光が、雲間から射してくる。強い一陣の風とともに、目の前に顕現するは、純白の装束に身を包んだ、凛とした面持ちの美貌の女神だった。榊の枝を挿した金の天冠の下には流れるような黒髪を下ろしたその御身は気高く光り輝いている。
「五霜山の女神──ヒルメ様じゃ」
宿禰さんの言葉に、全員が平伏した。
「お久しぶりです姉上」
悪王子が頭を下げ、ひざまずいた。
「あ……姉上?」
驚いている俺達をよそに、ヒルメ様が諭すように語りかける。
「悪王子。もう娘は必要ないはずです。既に障りは取り除かれ、正しき祭祀によって貴方の神力も回復した」
「……確かに力は戻りました。しかし」
姉神であるヒルメ様を前にして悪王子が口ごもる。
「姉上。私は決めたのです。月姫の巫女神を娶ると」
「いつまで月姫命にこだわっているのですか。あなたの恋はもう終わったのでしょう」
「月姫命とのことは、私の中でまだ折り合いがついておりません。蓬莱明光に封じられたことも、未だ納得がいかぬ。この娘は、月姫命を宿す巫女神であり、明光の子孫。手に入れれば、私の中で全てが終わるのです」
悪王子が雨を降らせてくれない原因は神力の衰えではない。蓬莱明光に敗れたことと月姫命に袖にされたことを根に持っているからだ。蓬莱明光はもうこの世にはいないし、この期に及んで月姫命が心変わりをするとは思えない。姉神であるヒルメ様の言葉さえも耳に届かない悪王子神を、どうしたら諦めさせることができるのだろう。
俺は必死に打開策を絞り出そうとしていた。重く暗く垂れこめた雨雲、低く響く遠雷。まるでこの世の終わりを見ているかのような陰鬱な風景の中で、悪王子が美月さんに手を伸ばした。
「さあ、オレの妻になれ」




