#6 蓬莱家(ほうらいけ)の人々
午後八時半を過ぎ、春祭りも一区切りついたらしい。
雑踏の賑わいが、次第に遠のいてゆく。
千鶴子さんに連れられて、社務所から蓬莱家の茶の間へ移動した。
畳敷きの八畳くらいの部屋で、隣はダイニングになっている。
ダイニングでは休憩中の宿禰さんが椅子に座っていた。神主さんが洋風のテーブルに座っているのは少し違和感があるのだが、重たそうな装束を着ているので、正座するよりも椅子に座った方が合理的なのだろうなと思う。
椅子に座って待っていると、割烹着姿の千鶴子さんが食事を運んできてくれた。
筍ご飯、ホタルイカと胡瓜の酢味噌和え、貝の煮物、冷ややっこ、山菜の天ぷら、里芋といんげんの味噌汁だ。
お祭りで忙しいはずなのに、手の込んだ食事に驚かされる。
両親が共働きで忙しい我が家の朝食はシリアルやカロリーバーがほとんどだし、普段の食事も洋食中心なので、温泉旅館のような和食がとても新鮮だった。
つづらはお神酒とゆで玉子の御膳を出してもらいご満悦の様子だ。浴衣に着替えた美月さんが二階から降りてきて、俺の隣に座った。
宿禰さんの合図に従って、一拝一拍手。
「いただきます」
香りの良い筍ご飯をほおばって、その美味しさに驚いた。
米粒がつやつやと輝いて、自然な甘みが感じられる。
「どうしたらこんなに美味しく炊けるんですか。何か特別な技術や道具があるんですか」
「あら、嬉しいわ。この地域は昔から水が綺麗だから食べ物も美味しいのかも知れないわね。おかわりもあるわよ」
千鶴子さんが微笑んだ。ホタルイカを噛むと、柔らかくぷちっと弾けて、ほろ苦さを含んだ中身が口の中に広がる。
どの料理も、驚くほどに美味しい。
そして、小鉢の中の巻貝の煮つけ。
「これ、どこかで見たことがあるような気がします」
「ばい貝※の煮付けよ。今日はお祭りだから」
「思い出した。これ、小さい頃に祖母の家で食べたことがあります」
「嬉しい事が倍になりますように、っていう縁起を担いでいるんですって」
「へえ……」
つまようじで身を取り出して食べてみると、甘醤油が貝の柔らかな白い身に沁み込んでいて、とても美味しかった。
「ばい貝は宿禰さんの好物でね、神事の無い日は晩酌のお供にすることもあるわね」
無言でばい貝をつついていた宿禰さんが咳ばらいをした。
俺の隣では、美月さんが上品な所作で冷ややっこを箸で崩しつつ、口に運んでいる。
「夏輝くんのおうちでは、どんなお魚が出るのかしら」
「うちでは全然食べないんです」
そうなの、と千鶴子さんが言った。
俺の住んでいた常世では、年々気候変動の影響が大きくなっており、小さい頃に水縹の海を泳いでいた魚は今ではほとんど北上してしまった。
おまけに、魚や貝には大量のマイクロプラスチックが蓄積されていると言われ、もう何年も食べていない。
それを考えると、現世の自然が豊かなことに驚かされる。
気づくと、喋っているのは俺と千鶴子さんだけで、宿禰さんと美月さんは無言で料理を食べている。
喋りすぎたかなと思っていると、千鶴子さんが言った。
「ごめんね、静かでしょ。実はね、うちは神道だから食事中は話さない決まりなのよ」
「そうだったんですか。すみません」
「少しぐらいならいいわよ。ねえ、美月?」
隣の美月さんが顔を上げた。
──昔話に出てくるお姫様みたいな、長い綺麗な黒髪ときめ細かな白い肌。
巫女装束もだが、浴衣もよく似合っている。
「はい。ところで、夏輝くんの制服ってすごくお洒落ですね」
「うちの高校の制服、有名デザイナーのブランドらしくて。まあ、私立だから生徒数の確保に気合いが入ってるみたいで」
「そうなんですか。この辺りの高校は学ランとセーラー服が主流なので、都会から来られたのかと思いました。夏輝くんは何年生なんですか」
美月さんが聞いてくる。
「高二です」
「そうなんですか。私も高二なんです」
美月さんの表情が明るくなった。
「え。巫女さんじゃないんですか」
年は近いだろうと思っていたが、同じ高校生なのが意外だった。
「私の本業は学生です。普段は近くの鳳凰高校に通っていて。でも、帰ると神社の手伝いをしていることが多いですね。祖父母だけだと、どうしても大変なので」
「そうなんだ」
美月さんは、うちの学校の女子達とは、少し違っていた。
とても素朴で、気立てが良さそうだった。
それに、まだ高校生なのに家のために働いているなんてしっかりしていると思う。
ご両親がいない理由は訊けなかった。
代わりに、もう一つ気になっていたことを宿禰さんに尋ねる。
「あの。さっき現れた忌津闇神でしたっけ。あれは一体何なんですか。常世にはそういうのはいないんですけど……」
宿禰さんが茶碗と箸を置き、顔を上げた。
「あれは人々の信仰を失った落ちぶれた神に、厄や穢れがくっついたものと言われておる」
「厄? 穢れ?」
「厄とは『災い』。穢れは、『人間の死』、『病』、『血』、後は『不浄なもの』に付いてくる。厄や穢れを放置すると、寄り集まって人に災いをもたらすものになる。──そうなると、祓うか封じるか、状況に応じてどれかの方法を取らざるを得ない」
「現世には物の怪や怨霊もいるので、ここに住む人はお神札やお守りを身に着けてそういったものを回避しているの」
宿禰さんと千鶴子さんがかわるがわる教えてくれた。
お腹がいっぱいになったのだろう、俺の隣ではつづらが欠伸を一つして、椅子の上でとぐろを巻いて眠ってしまった。
「そうなんですか。俺のいた世界では、物の怪や幽霊は物語の中のファンタジーでしかありません」
「そうか。しかし、常世での常識は、現世では通用せん。君がつづら様の加護を得ているとしても、外を歩く時は気をつけるようにな。命を落としてしまうこともあるからのう」
つまりこの世界では、いつ化け物に襲われてもおかしくないと。
忌津闇神のことを思い出して、今更怖くなってきてしまった。
「夏輝くん、大丈夫ですか。さっきから顔色が悪いような気がしますけど……」
美月さんが心配そうに言った。
「俺、まさか、家に帰れなくなるなんて思いもしなくて。それに、この先ここでやっていけるか心配になって」
蓬莱家の柱時計がボーン、ボーンと鳴り響き、九時を告げたが、家族が迎えにきてくれるはずもない。
深まる夜に心細さが増してゆく。
「夏輝くん。ここに来たということは、必ず戻れる方法があるはずよ。捨て鉢にならなければきっと大丈夫よ。みんなでその方法を探しましょ」
千鶴子さんが微笑んだ。
「うむ。あまり深刻になりすぎず、肩の力を抜くことじゃ」
宿禰さんが、「さて、そろそろ春祭りも仕舞じゃ。最後にもう一仕事してくるかのう」と立ち上がり、掛けてあった狩衣をまとった。
※ばい貝はとても美味しいのですが、唾液腺に弱毒がありますので、調理の際は唾液腺を取り除くようにしてくださいね。