#5 不幸な高校生、月姫神社の居候になる
「──それで、帰れなくなったと」
月姫神社の社務所で、俺は正座して俯いていた。座布団の上には、つづらがとぐろを巻いて休んでいる。
老宮司が文机の上から住宅地図を持ってきて見せてくれた。
美月さんと、着物姿の老宮司の奥さんがお茶と和菓子を持って部屋に入ってきた。会釈をする。
「ここが、君が今おる月姫神社じゃ」
老宮司が地図の上の鳥居の記号を指さした。
近くには市町村名の表記もある。
──鳳凰市青桐町。
確かに住宅地図に表示されている地名は俺の住んでいる地域のものだが、神社の周りに建っている集会所や商店の名前には見覚えがない。
周囲には水縹山や五霜山があり、少し離れた所に的火川と弓部川、下流には海がある。
地形も俺の住んでいる町と同じ。ただこの地図だと、開発があまりなされていない様子だ。
となると、昭和あたりにタイムスリップしてしまったのだろうか。
「ここが青桐町なら、この近くに俺の通っている普賢高校があるはずなんですけど」
「普賢高校? この辺りは田舎じゃから、高校は県立の鳳凰高校しかないぞ」
老宮司の言葉にショックを受けつつ、周辺を地図で確認するが、『普賢町』の地名の周辺は一面の田んぼと畑だった。
眩暈とともに胃の中からせり上がってくる胃液と吐き気、脳内に渦巻く得体の知れない不安と焦りで、居ても立っても居られなくなる。
老宮司と美月さん、そして奥さんが心配そうに顔を見合わせている。
「おじいちゃん」
「ああ」
老宮司が言った。
「君、落ち着いて聞いてくれるかね。ここには、ごく稀に『常世』と呼ばれる別の世界から迷い込んでくる者がいると言う。我々は『常世人』と呼んでいるがのう。恐らく君は、常世人なのじゃろう」
「常世人?」
意味が分からずに困っていると、老宮司が文机の上の和紙に『常世』『現世』と筆で書いた。
「うむ。君のいた世界が『常世』で、こちらの世界が『現世』じゃ」
「宮司さん。俺はどうしたら常世に帰れるんですか?」
「──常世と現世の行き来は、そう簡単にできるものではない」
「どれくらい難しいことなんですか」
思わず身を乗り出す俺。老宮司は静かに言った。
「崖の上から海に落とした真珠の粒が、海底でたまたま口を開けていた貝の中に入り込むぐらいの確率と聞く」
──俺は絶望した。
これは、これまでの人生史上最悪の出来事。
忌津闇神に現世へ引き込まれたのが不可抗力だったとは言え、あの時、つづらの言う通りおとなしく引き返していれば良かったのだ。
そうすれば、元の世界へ帰れなくなることもなかった。
「現世から常世へ道が繋がるのは元々奇跡に近い上に、つづらがさっき行き来をしたばかりだから、次に道が繋がるのはきっと何百年後とかの話ですよね?」
もう泣きたい気持ちで胸がいっぱいだ。老宮司が俺の肩にそっと手を置いた。
「そう絶望しなさるな。『常世に戻るための確率は、自分の力で高めることができる』のだよ」
「一体どうすればいいんですか? 俺、戻れるためならどんな事でもします」
「善行を積む事じゃ」
「それはどういう……」
「誰かの助けになるような善い行いです。そうすれば、あなたが元いた『常世』がだんだんと近づいてくるそうです。ここに迷い込んだ常世人はそうやって帰っていったと、この神社の古い文献にも記録が残っています」
美月さんが補足した。
しかし今は頭がパニックになっていて、話の内容の深いところまでは頭に入ってこない。
「先ほど君は、神力を使って忌津闇神を祓ったろう。厄や穢れを祓い、人に仇なす妖怪や物の怪の被害を防ぐことも立派な善行じゃ。だから、いつか必ず帰れるよ」
顔を上げると、老宮司の誠実そうな瞳がそこにあった。
「瀬戸夏輝君、と言ったかな。わしは蓬莱宿禰と申す者。今日は遅いし、泊まっていきなさい。夜になると、外は物の怪の往来が増えて危ない」
「でも……」
「何なら常世に戻れるまでの間、しばらくここに住んでもいい。こちらは妻の千鶴子、孫の美月だ」
「千鶴子です。夏輝君、大変だったわね。お腹空いたでしょ。お夕飯の用意もしてあるから、ゆっくりしていってね」
老婦人が柔らかな笑みを浮かべた。うぐいす色の上品な着物がよく似合っている。
「蓬莱美月です。よろしくお願いいたします」
美月さんが畳に手をついて頭を下げた。
年齢は俺と近いような気がするが、神社の娘だけあって、礼儀正しく作法が美しい。
見ず知らずのご一家に甘えるのも気が引けるが、これまでの常識が通じない世界で暮らすのならば、当面はここでお世話になるのが一番ベストの選択だろう。
「瀬戸夏輝です。暫くの間、お世話になります」
深々と頭を下げると、つづらがちょこんと膝に乗り、真剣な表情で俺を見上げた。
「キミが必ず常世に帰れるようにボクも頑張るから」
──ああ、何という僥倖。
皆の優しさに、思わず涙が出そうになった。
こうして俺は、当面の間、月姫神社に居候させてもらうことになったのだった。