#4 暗転
後ろから、美月さんが言う。
「夥しい量の穢れです。一度で決めなければ」
「それは確かにそうなんですけど」
こんな化け物を見たのも生まれて初めての俺に、何気ない一言でハードルを上げてくるのはやめていただきたい。
再び前を見ると、忌津闇神が正面から俺に向かって飛んできた。
ぶつかりかけるが、つづらの力を得ているためか体が軽く、右に左といとも簡単に攻撃をかわせてしまう。
「すごい。あの子、いったい何者なんだ」
「一般人じゃないよな?」
ざわざわと声がした。参拝客に見守られる中、俺は後ろに高く飛び退り、足元を狙ってくる忌津闇神をひらりとよけた。
ところが、着地した先はりんご飴屋の屋台だった。
何という不幸。
屋台にぶつかり、腰に鈍い痛みが走ったかと思うと、売り物のりんご飴が地面にばら撒かれる。
屋台にぶつかった衝撃で桜の木が大きく揺れ、花びらが一度に散る。いつの間にか大勢の人だかりができている。
「すいません」
俺が振り返って謝ると、群衆の中から店主と思われるエプロン姿の髭のおじさんが大きな声で叫んだ。
「兄ちゃん、大丈夫か。屋台のことは気にするな。それよりもあんたが怪我しないように気をつけてくれ」
その一言で、勇気をもらう。
「ありがとうございます」
俺は忌津闇神に向き直る。肩の上のつづらが言った。
「ナツキ。あいつに力をぶつける所をイメージするんだ」
「イメージか。どんな形でもいいんだよね?」
「うん」
怖くないかと言えば嘘になるが、ここまで来れば、もう開き直るしかない。
右から来るか、左から来るか。奴の動きを見極めようと目を凝らす。
「──来る。力を解放して!」
つづらが言った。
こちらに飛び込んでくる忌津闇神に、右の拳に力を集束させ、一気に解き放つ。
狭い面積に、凝縮した力をぶつける。
例えるなら、バドミントンの羽根をスマッシュで打つのと同じイメージだ。
拳から放たれた眩い光が忌津闇神に命中したかと思うと、忌津闇神がびちゃびちゃと激しい音を立てて地面に落ちる。
生ごみのような腐臭が辺り一帯に広がり、俺は片袖で鼻を塞いだ。
「やった」
何とか、うまくいった。ほっとして、その場に座り込みたい気持ちになる。
「穢ス……穢ス……呪呪呪……」
少しの間、忌津闇神は呪詛の言葉を吐きながら蛭のように蠢いていたが、やがて静かになった。
それを見て安堵した俺は、右手を下ろした。
「ナツキ危ないっ、まだ生きてる」
つづらの叫び声に、我に返った。
その瞬間、黒い水たまりのような状態だった忌津闇神が、再び塊の形になって俺めがけて飛んで来る。
突然の事になすすべもなく、忌津闇神が自分にぶつかってくる映像をスローモーションでぼんやりと見ていることしかできない。
呆然と立ち尽くす俺の前に、老宮司が飛び出してきた。
そして、紙のたくさん下がった棒──大幣を振った。
その痩せた背中には、筋肉や力強さこそは無くても、長年の経験に裏打ちされた安心感のようなものが感じられた。
目の前で忌津闇神が砕け散り、まるで蒸発するかのように消滅した。
周りで見ていた大勢の参拝客から、「おお……」「良かった」と声がして、やがて拍手が鳴り響いた。
「大丈夫じゃったか」
「ありがとうございます」
俺は老宮司に礼を言うと、肩の上のつづらにそっと手をやった。つづらは随分と疲弊した様子だ。
「大丈夫か、つづら」
「うん。少し休めばだいじょうぶだよ。それより、とにかくキミは急いで大鳥居へ戻るんだ。『こっち側』にいるとさっきみたいな怪異に巻き込まれてしまうから。ここはそういう場所なんだよ」
「わ、分かったよ」
つづらの真剣な表情に気おされて、鳥居へ向かって小走りに進む。
老宮司と美月さんが鳥居の所まで見送りに来てくれた。
「有難うございました」
二人に頭を下げられ、思わず恐縮してしまう。
「いえ。俺は何もしていなくて。つづらが力を貸してくれたんで、何とかなりました」
辺りは段々と暗くなっていた。早く帰らないといけない。
「じゃ、これで失礼します」
──不思議な一日だった。
鳥居の向こうに戻れば、またいつもの退屈な日常が待っている。
感傷に浸りながら鳥居から一歩足を踏み出した俺は、目を疑った。
参道の前にひしめくように建っていた住宅が一つ残らず消えていた。
代わりに田んぼとあぜ道が広がり、その奥には濃い深緑色に連なる山々が見える。
上を見ると夕焼けと星空のグラデーション。
大鳥居の右側には、細い路地がくねる迷路のような古びた町並みが広がっていた。
建ち並ぶ古い木造の家々に明かりが点々と灯り、どこか懐かしい感じがする。
道路には街灯が明滅していて、その周囲を大きな蛾がぶつかるようにして飛んでいた。
「まさか……」
昔にタイムスリップしてしまったのか。
それとも、都会から田舎にテレポートしてしまったのか。
ポケットから取り出したスマホには、『圏外』の文字が光る。
「まずいね。鳥居が閉じてしまったみたいだ。ナツキ、一度神社に戻ろう」とつづらが言った。
――鳥居が閉じただって?
その言葉に胸騒ぎを感じながら、つづらと一緒に神社へと引き返した。
まだ春祭りの最中らしく、大鳥居の向こう側は明るく華やいでいた。嫌な予感は止まらなかった。