#2 もうあの瞬間には戻れない 前編
燃える斜陽が窓に映る木々の葉を透かして金色にきらめかせる。放課後の音楽室の静寂を破ったのは、幽浅の握りしめた指揮棒だった。
──蓬莱さん。合唱コンクールの練習がまだ終わってないのに、どうして帰るの? クラスの優勝がかかっているのよ。
クラス委員長としての責任感と正義感から出た幽浅の糾弾に、クラスメート達の視線が集中する。美月さんが申し訳なさそうに小さく頭を下げ、「ごめんなさい。今日は大切なおまつりがあるの」と消え入りそうな声で言って帰っていく。その背中を見つめながら幽浅が強くこぶしを握りしめる。
──クラス委員長の私は、みんなの努力を守らなくちゃいけない。蓬莱さんが優先した『おまつり』とやらが、合唱コンクールでの優勝を投げ出すほどの価値があるのかを私には見届ける義務がある。
その夜、幽浅が訪れた月姫神社の境内は、参拝者たちの熱気に包まれていた。突如、神楽殿に現れた「かぐや姫」がその喧騒を一瞬で静まり返らせた。満月の光がスポットライトのように美月さんを光り輝かせる。よその神社から応援に来た巫女たちを伴って五穀豊穣の舞を奉納するその姿は、音楽室にいた自信なさげな少女とはまるで別人だった。装束が月光を浴びてたなびき、月の女神が懸かったとしか思えない気品の宿った表情と見事な舞いぶりに、皆が息をのんだ。
「綺麗だなぁ。『月姫さん』は」
「千年近くの歴史を背負う『生き神』なんだって」
気品と神性をたたえたその姿に参拝者たちの視線が釘付けになり、ため息が漏れた。
自分の知らない世界で光り輝く美月さんの姿を見て、正体不明の焦りに見舞われる幽浅。指揮棒を振って学校中の注目を集めている自分とは、背負う責任も集められる賞賛もまるでレベルが違う。
──なによ。何なのよ!
舞い終えた美月さんが、氏子たちに囲まれて微笑む。その満ち足りたような眩しい笑顔を見た時に、幽浅の心にどす黒い嫉妬の感情が走った。
──みんなが泥臭い努力をしている時に、自分だけがお膳立てしてもらって綺麗な着物を着てちやほやされる。それが蓬莱さんの『おまつり』なのね。みんなと同じ制服で大勢の中に紛れてしまう合唱コンクールの練習なんて馬鹿らしくて仕方ないでしょうね。
幽浅は己の唱える正義を肯定してもらうべく、歯に衣着せぬ物言いで知られる般若あかりに応援を求めることにした。
──蓬莱さんには協調性を持てってはっきり言うべきよ。般若さんもそう思うでしょ?
しかし、般若の答えは幽浅の思っていたものとまるで違っていた。
──仕方ないじゃん。アイツは月姫神社の娘なんだ。アタシは昔から、美月がどんなに大変か見てきたから。
肯定してくれると思っていた般若が美月さんの肩を持ったため、幽浅の自信とプライドにひびが入った。自分のこれまでの行動や価値観を全否定された気がした。
これまで自分だけが世界を完璧にコントロールしてきたと思っていたのに、自分よりもおとなしくて目立たない少女が、自分よりも大きなものを背負い、知らない世界で光り輝き賞賛を集めている。生まれた家の違いだけで。
──おとなしいふりをして、本当は自分だけが特別だって優越感に浸ってるんでしょ?
流れ込んでくる幽浅の感情の渦に、俺は奥歯を噛みしめた。幽浅の抱いた価値観の乖離は生きてきた世界の断絶そのもので、容易に埋まるものではないと俺は思った。
「ねぇ瀬戸くん。あなた、蓬莱さん達のグループなんかにいないであたし達の所に来ない?」




