#2 桜吹雪の中の巫女
「神力?」
「うん。月姫様から与えられた神力は、ボクの命の一部でもある。キミに降りかかる厄──つまり災いを、祓ってくれるよ」
「災いを……」
「うん。キミとボクは縁の糸でつながった。離れても、ずっと友達だよ。キミが少しでもいい人生を送ることができるように、毎日祈るよ。どうか気をつけて帰ってね」
せっかく友達になったばかりなのに、もう別れなくてはいけないなんて。
いても立ってもいられなくなって、石段を這いのぼるつづらを追いかけた。
「あのさ。もう少しだけ、つづらと話をしたいんだけど」
「ごめんね。ボクもナツキともっと話がしたかったけど。でも時間がないんだ。これでお別れだよ」
すげなく断られ、立ち尽くす。
「それに、この鳥居から先はキミは足を踏み入れちゃいけない」
楽しげな囃子の流れる鳥居の向こう側は満開の桜の下にたくさんの蜂蜜色の提灯が続いていて、屋台で賑わう参道を何人もの参拝者が歩いて行く。
心躍るような祭りの華やぎ。
「何で俺は鳥居の向こうに行っちゃいけないの? 小さい頃、この神社の縁日に何回も来たよ?」
「キミがあちら側の人間じゃないからだよ」
それならば、あの向こう側には何があるというのだろう。神の世界か、それとも桃源郷か。
──行ってみたい。あの鳥居の向こう側へ。
「百年に一度見られるか見られないかの悪相とな……」
不意に、しわがれた声がした。鳥居のすぐ手前に、「易占」と書かれた薄暗い行灯があった。
行灯の炎が仄かにゆらめき、紫色の着物を着て帽子を被った占い師の老婆が座っていた。
魔女のような形相と、不穏な言葉に思わずぎょっとして立ち止まる。
「お前さん、あらゆる厄災を引き寄せる。水難、風難、火難、金難、おまけに女難の相まで出ておるわ」
「それさっきも言われたけど、本当ですか? マジでショックなんですけど……」
「どれ、少し詳しく見てあげよう」
痩せた皺だらけの手が伸びたかと思うと、すばやく俺の左腕をつかむ。
鳥居の中に引き込まれた。思いもよらぬ力の強さだ。
「ナツキ、危ない。逃げるんだ」
つづらが叫んだ。
老婆が俺の体を自分の側へぐいと引き寄せようとした瞬間、俺の右手が白く輝いた。
「神力使いか……始末しておくか」
老婆が枯れ枝のような手を引っ込めたかと思うと──黒装束の異形の者に姿を変えた。
瞬く間に一体から七体に分裂し、おぞましい呪詛を唱えながらこちらに向かってくる。
──何が起こったのか分からない。
忌津闇神が顕現したぞおっ、と誰かが叫んだ。
参拝者達が散り散りになって逃げ始める。
「ナツキ。とにかく奥の拝殿へ逃げるんだ」
「つづら。あいつは一体何」
「忌津闇神。落ちぶれた神のなれの果ての姿だよ。逃げないと穢れを受けたり、魂を喰われたりする」
「魂を喰われるって……」
――こんなことがあるはずがない。
そう思うが、今見ているものはまぎれもない現実だ。
「……どうしていつも、俺ばかりがこんな目に!」
白蛇つづらを抱きかかえた俺は、己の不運を嘆きつつ参道を走った。
化け物に追いかけられる恐怖感で身の毛がよだち、手のひらが湿る。
逃げ惑う人々の間をすり抜けながら参道を走った。参拝客の一人と肩がぶつかる。
「おい、どこ見て走ってるんだ」
「すみません」
振り返ると、忌津闇神がすぐ後ろまで迫ってきていた。
後ろの方で誰かのきゃあっ、という悲鳴がした。
拝殿までもう少し。とにかく息の続く限り走れ。
「ナツキ、足が速いんだね」
「うん。俺、足の速さだけは誰にも負けたことがなくて」
忌津闇神達が飛び上がり俺の行く先に回り込んだかと思うと、空中から漆黒の手をこちらへ向かって伸ばした。
びちゃびちゃと腐臭の漂う黒い液体をこぼしながら。
「げっ」
「ナツキ。もう少しだよ。ご神体に近づけば、忌津闇神の力も少しは落ちるはずだ」
「分かった」
迫りくる黒い手をかわし走り抜けた瞬間、春風が吹き桜吹雪が舞った。
拝殿前に設けられた舞台の上には、金色の天冠をかぶり、薄紅色の装束に身を包んだ一人の巫女が扇と鈴を手に舞っていた。
強烈な既視感に、俺は思わず息を呑んだ。
振り返った巫女が、俺を見る。
彼女が振り向いた瞬間――まるで時間が止まったかのように感じた。
艶やかな前髪の下には、深い宇宙を宿したかのような瞳があった。
舞い散る桜吹雪の中のその姿は楚々(そそ)としていて見目麗しく、俺は一瞬、今の自分の状況を忘れて見とれていた。