#1 朧月夜のかぐや姫 前編
「ねえ美月さん」
夕食後、茶碗を洗い終えた俺は祝儀袋を片手に縁側へと出向き、つづらと一緒に勢いよく障子戸を開けた。満月の下、広縁で静かに夜風を浴びている浴衣姿の美月さんが振り返る。
「小桜山神社の奉仕料、全額お小遣いにしていいって宿禰さんが言ってた。俺、所持金が全部電子マネーだったから正直助かっ……」
突如、茂みから大きな影が美月さんめがけて飛びかかるのが見えた。
「きゃあ!」
「あやかしか!」
広縁から青白く輝く神力を放つと、「ぎゃん」という獣の悲鳴とともに命中の手ごたえがあった。美月さんの足元に崩れ落ちたのは、人間くらいの大きさの白い毛の四足獣。その瞳は怯えを孕み、殺気立っていた。白い毛を逆立てて低い声でうなり、威嚇してくる。
「キツネ……?」
「人を化かす狐──野狐だよ。災いをなす前に祓った方が」
つづらが言い終える前に、美月さんの瞳が夜の闇の中で妖しく輝いた。
「敵へは 慾み恨みに発りけり 捨てて愛くに 滅びぬはなし」
野狐がこん、と鳴いて美月さんに頬をすり寄せた。美月さんが野狐に抱きついた。
「可愛い! 白い毛がふわふわ」
「今のは?」
「月姫様の『新月の力』で弱っているあやかしを味方に引き込んだの」
「月姫命って一体どういう神様なの? 古事記に出てくる月読命とどう違うの?」
「月読命は夜を統べる月の神様で、日本の国を生んだ伊邪那岐命から生まれたの。太陽神の天照大神や、八岐大蛇を退治した素戔嗚尊の兄弟の神様なんだよ。月の満ち欠けの力で、豊穣や開運のご利益を下さるのは月姫命も同じ。でも、月姫様のルーツに関しては文献が消失していて分からないことが多いの」
月姫神社に住むようになって少し時間が経つが、月姫命や巫女神信仰については謎が多すぎて未だによく分からない。
「この新月の力は、あやかしと同調する力があるんだと思う」
美月さんがそう言った時、野狐がこーん……と寂しそうな声で鳴いた。
「この子、はぐれ子狐かも知れない。寂しいならいつでもうちに来ていいからね? そうだ、今夜は朧月夜だからあなたの名前は朧だよ」
「ミヅキの悪い癖がまた始まったよ。ボクは怒られても知らないからね」
「素性の知れないあやかしを神社に引き込んだらまた宿禰さんにどうこう言われるんじゃ? 君は少し危機管理意識を持った方がいいんじゃないのか」
「でもこの子一人ぼっちで可哀想だし。それにこんなに可愛くてふわふわだし!」
俺とつづらの言葉はどこへやら、美月さんが朧に抱きついて白い毛に体をうずめた。
「モッフモフぅ! ほら夏輝くん達もやってみてよ」
俺とつづらも美月さんに続く。白いふわふわの朧に抱きつくと、お日様のいい匂いがした。
「あっ本当だ! 気持ちいい……」
朧に手を振ると、「こん!」と鳴いて振り返りつつ境内から去っていった。再び雲間から現れる霞んだ朧月を見上げる美月さんの瞳は、月を通してどこか遠くを見ているようだ。かぐや姫のようなその横顔がとても寂しそうで、まさか月に帰りたいとでも言いだすんじゃないかと俺は不安になった。
「どうしたの? 今日は少し元気ないんじゃない? ご飯のお代わりも三杯しかしてなかったし」
「ううん大丈夫。私は元気だよ」
力ない笑顔で微笑むと、美月さんがきびすを返した。
「もうこんな時間。早く寝なくちゃ。おやすみなさい」
「おやすみ……ちょっと待ってまだ九時前だけど!」
月姫神社では、毎朝早くから朝拝という朝のお参りがあり、神様の食事である神饌を供え、祝詞奏上をしなければならないので無理はないのだが。
「……生活サイクルが女子高生と言うよりもおばあちゃんに近い」
美月さんが去った後、俺とつづらは縁側に腰かけて朧月を眺めていた。彼女に元気がない理由は分からないが、現世に来て落ち込んでいた俺を励ましてくれたお返しをしたいと思った。




