#5 狒々(ひひ)
時刻は午前二時、草木も眠る丑三つ時。
俺達は、伏魔殿と化した月姫神社で、物の怪退治に明け暮れていた。
夜の青に染まる拝殿前の廊下。
宿禰さんが大幣を振り、たくさんの小さな異形たちを祓う。
祓い切れなかった物の怪達が、こちらに逃げてくる。
「ナツキ。相手の力の波が弱まるタイミングを狙って祓うんだよ」
肩の上のつづらに教えられながら、右手をかざして青白く輝く神力で祓っていく。
右手から放つ神力に、物の怪達が淡い光を放って消滅していく。
段々と祓いの要領が分かってきた。
「──きゃあっ!」
絹を引き裂くような声に振り返ると、障子戸を倒して現れた四つ足の毛むくじゃらの化け物が美月さんに襲いかかろうとしていた。
長い体毛、鋭い牙と爪。
その姿は猿に似ているが、体躯は俺より一回り大きい。
美月さんが化け物に向かって神楽鈴を振るが、相手の妖力が大きすぎて祓うまでには至らない様子だ。
つづらが言った。
「あいつは狒々(ひひ)。数百年前に村の娘を何人も喰って、スクネの先祖に封印されてる」
「ひひひ。ひひひ。女……女……女女女若い女……」
「やめろ見苦しい!」
俺は美月さんをかばい、物の怪の前に立ちはだかった。
男なら興味を持たれることもないだろう。
突然目の前に飛び出してきた俺を、狒々(ひひ)が見つめ、顔を赤らめた。
「……お前でもいいぞ」
「げっ」
どうやら狒々(ひひ)が、美月さんから俺にターゲット変更したらしく、俺を執拗に追いかけてくるようになった。
攻撃をバックステップでかわすが、パワー系の物の怪であるからか、力の波が弱まるタイミングが今一つつかめない。
「やば!」
右手、左手と交互に繰り出してくる鋭い爪が風圧とともに俺の前髪をかすめ、切られた髪が数本、はらはらと落ちる。
思わず背中が恐怖で粟立った。
「ひひ。いい表情だ。思いきり怖がらせてからなぶり殺しにすると美味いんだよな。ひひひ」
「悪趣味……」
俺が戦慄していると、大幣を構えた宿禰さんが狒々(ひひ)の前に立ちはだかった。
「孫たちに手は出させん! このわしではどうじゃ!」
「……」
一瞬、場が静まり返った後、宿禰さんを無視して再び俺を追いかける狒々(ひひ)。
「ひひひ! お前に決めたぞ!」
「一方的に決められても俺にも選ぶ権利というものが!」
「ええい! わしの所に来んかい!」
──なぜか気を悪くしている様子の宿禰さんだった。
渡り廊下の柱の陰に隠れる。
じわじわと精神的に消耗しているのが分かる。正直言って、これ以上の相手はしたくない。
ふいに、後ろから背中をつつく者がいる。
振り返ると、そこに狒々(ひひ)がいた。
「うわっ!」
飛びすさって距離を取り走り出そうとした時、床の上で足を滑らせた。
「ひひひ! 恐怖におののく姿……興奮するのう!」
体勢を崩したところに、狒々が嬉々(きき)として鋭い爪をふりかざして覆いかぶさってくるところを、すかさず右手を突き出して神力を放った。
神気を顔面に浴びせられ、狒々が怯んだ。
「お前まさか……神力使いか!」
すぐさま宿禰さんが走ってきて封印の神札を貼り付けた。
狒々(ひひ)が境内の封印の石に吸い込まれてゆく。
「はあっ、はあっ、はあっ……」
おさまらない動悸。
暫くの間、俺はそこから動けずにいた。
命の危機の他、色々な意味での恐怖感が遅れてやってきて、身体が震えた。
「ナツキ、みんな、お疲れ様。今のが最後の一体だよ」
懐から顔を出すつづらの労いの声に、いよいよ完全に力が抜けた。
⛩⛩⛩
物の怪退治が終わり、俺達は社務所に集合した。
障子の向こう側が明るくなり始めていた。
社務所と神殿、蓬莱家の住居の周囲に宿禰さんが応急処置で張りめぐらせた注連縄は、物の怪達の蹂躙により所々ちぎれかけていた。
宿禰さんの烏帽子が傾き、狩衣の袖も片方破れている。
「皆、ご苦労じゃった。寿命が縮まったわい……」
「やっと終わりましたね。お布団が恋しいです」
美月さんが言うと、つづらが首を伸ばした。
「さすがのミヅキも物の怪にはもう懲りたでしょ」
「凶悪な物の怪は困りますが、今は善良で可愛い物の怪ちゃんに癒されたいです」
ここぞとばかりに集まってきた白魂達をよしよしと撫でている美月さんを見て、「可愛ければ許されるのかい」とつづらが呆れた顔をした。
⛩⛩⛩
──午前十時。
ひと眠りした俺達は、物の怪達に荒らされた境内や拝殿の片づけ作業に追われていた。
「これでもう大丈夫でしょう」
美月さんが封印の石の前で、腰に手をあててふっと息をついた。
注連縄が張られた石の上には、これでもかという程にお神札が貼られ、一種の禍々(まがまが)しさを放っている。
正面には「魑魅魍魎に注意」と書かれた木札が新たに立てられた。
文字の隣に描かれた化け物達のイラストがシュールで怖い。
ぱんぱんと手をはたき、腰に両手を当てる美月さん。
「……これで誰も近づけないはずです。これで誰も!」
「すみません、本当にすみませんでしたっ!」
美月さんのあまりの剣幕に、ひたすら謝るしかない俺だった。




