31 あなたの隣で
その日、バルタザール・リューガーはガラにもなく緊張していた。
見習いたちの前では平静を装った――鋭いエトヴィンには気づかれていたかもしれない――が、いざ退勤して馬に乗ると、今日の夕方に妻に対して告げた己の言葉が蘇ってきて、恥ずかしいやら混乱やらで胸の奥がもやもやしてくる。
……妻から、「好き」と言ってもらえた。
自分が妻に抱く愛情が十だとしたら妻から自分への愛情は一か二だろうが、まあ少しずつ割合が増えればいいかな……と思っていた矢先、とんでもない爆弾をぶち込まれた。
そもそもディートリンデはバルタザールより二つ年上ということもあり、従妹からろくでもない内容を聞かされていることもあり、耳年増で妙に度胸があった。
貴族の令嬢の中には、「新婚夫婦がベッドでキャベツを食べることで、新婦のお腹に赤ちゃんができる」と本気で信じている者もいるくらいだという。
まさかディートリンデもそう思っているのでは……と思って前にそれとなく聞いてみたのだが、「それくらい知っているわよ」とさらっと言われた。
しかも子どもを作る正しい過程について真顔で述べようとするものだから、慌ててバルタザールの方が妻を止めることになった。従妹による教育内容は、ある意味正しかったようだ。
そんな、わりと達観していてさばさばしている妻から、まさか「好き」と言ってもらえるとは思っていなかった。
妻にも自白したとおり、バルタザールはこれまで男女交際経験が一切ない。
過去に同僚に、ディートリンデが言っていたような店に連れて行かれたことはある。だがどうしてもディートリンデの顔が頭を過ぎり、結局酒だけ飲んで店から抜け出してしまった。
そのときはバルタザールの容姿が気に入ったらしい店の女性に追ってこられ、同僚からは「狙っていた子がおまえに取られた!」と八つ当たりされたものだ。
いい年こいてなんというザマかと思うが、巡り巡って初恋のディートリンデと結婚できたのだから、これでよかったと思っている。
……だが、いつまでも逃げ回るわけにはいかない。
ディートリンデが「好き」を返してくれたのだから、バルタザールも堂々と「好き」を妻に返すべきだ。
……と思って帰宅したのだが。
「……」
「……」
「……リンデ」
「はい」
「なぜ、君が俺の寝室にいるんだ?」
帰宅して風呂に入ったら、「奥様が上でお待ちです」とヘルベルトが言った。
では……と思ってディートリンデの部屋に向かったが、「そちらではありません」と言われる。
どういうことだと思いつつ主寝室に行くと、そこでディートリンデが待機していた。
使用人の女性が選んだという白いネグリジェ姿で、普段はきちっと結っている髪も下ろして背中に垂らしている。胸には、ずっと前にバルタザールが買ってやった灰色の猫の抱き枕を抱えていた。
ディートリンデも珍しくも困った様子だったが、ここは男としてバルタザールが率先して動くべきだろう。
「……ええと。その格好はもしや、ここで寝るつもりか?」
「それは……寝る前にバルトと話をすると言ったら、メイドの皆がこういうふうにしてきて……」
なるほど、メイドたちの仕業だったか。高確率でヘルベルトも絡んでいるだろう。
バルタザールがおしめをしている頃から知っている執事がニヤニヤ笑う姿が、容易に想像できる。
バルタザールはため息をつき、後ろ手にドアを開けた。
「確かにそう言ったが……ここでは君が落ち着かないだろうから、居間に下りよう」
「……だめなの?」
まさかの質問に、バルタザールは少し言葉に詰まってしまう。
「だ、だめというか……君の方が、嫌ではないのか?」
「……。……嫌じゃ、ないわ」
「えっ」
「好きな人と一緒にお喋りをして、そのまま寝たいの。バルトは……嫌?」
――いつも凛と背筋を伸ばして前を見つめる妻が、目尻を赤くして首を傾げ、尋ねてきた。
……ああ、やっぱりバルト、固まっちゃった。
メイドたちは「絶対に大丈夫です!」と言うし、ヘルベルトも「今こそ『押す』ときですよ」と意味深に笑うから、それじゃあと思って主寝室に突撃してバルトが帰ってくるのを待っていた。
彼が嫌がるならすぐに引き下がるつもりだった。
でも……彼のことが素敵だ、好きだ、と思っていることに気づくようになった私は、もっとバルトに近づきたい、という欲求を抑えられなくなった。
ただ、二人並んでお喋りをして、一緒に寝るだけでいい。
もう一歩、一緒に前に進みたかった。
バルトはしばし硬直していたけれど、やがてきゅっと唇を引き結んで首を横に振った。
「嫌なわけない。俺は、リンデにとってこういうのはまだ早いと思って、遠慮してきた」
「あら、それじゃあ私たち、どっちもどっちね。私も、バルトが嫌なら引くつもりだったから」
「……そうだな」
そこでバルトはふっと微笑むと、ドアを閉めた。
それでも鍵は掛けず――いざとなったらいつでも私が出て行けるようにしてくれるところが、本当に愛おしい。
バルトに手を引かれて、部屋の中央にある大きなベッドに腰を下ろす。なんとなく落ち着くので、猫抱き枕は抱えたままだ。
「……今日の夕方、リンデに『好き』と言ってもらえて……本当に嬉しかった」
ぽつぽつと、バルトが語り始める。
これが彼の言っていた、「続き」なのだろう。
「でも、俺も男だ。自制しようと心がけないと君の意に沿わないことを強いそうで、ひたすら待つ姿勢でいることにした」
「……そうよね。ごめんなさい、ずっと待たせて」
「いや、いいんだ。その間、俺もリンデとの関係についてゆっくり考えてきたし、君のことを見つめる時間も得られた」
バルトはそう言うと、目尻を緩めて私を見つめてきた。
「俺が君のことを好きなのは、子どもの頃からだ。でも……資料庫で調べものをする君の横顔や、メイドたちと談笑する姿、見習いたちにきびきびと指示を出す後ろ姿を見ていると、どんどん『好き』という気持ちが募ってきた」
「そ、そうなの?」
「ああ。……いつか、君にも同じように俺のことを『好き』と思ってもらいたい――いや、思わせるために、張り切ってきた」
抱き枕を抱える手の力が緩んだ隙に、バルトが片方の手をそっと取って握ってきた。
「……ありがとう、リンデ。君の気持ち、すごく嬉しい」
「バルト……」
「……ヘルベルトたちのお節介もあるけれど、俺はやはり、君と一緒に寝たい」
とん、と優しい感情が、私の胸を衝き動かす。
バルトの優しい緑の眼差しが、私の胸を温めてくれる。
「君が受け入れてくれるのなら、俺も同じものを君に返したい。だから……これからは、ここで一緒に寝てくれないか?」
「っ……」
「……あ、ああ、もちろん俺は帰宅時間や起床時間も不定期だから、隣でごそごそされて迷惑だというのならやめておこう。君の睡眠の邪魔をするのは嫌だし」
「そんなことないわ」
……本当は、ちょっとだけ寂しかった。
私が知らない間に帰ってきて、知らない間に起きて、知らない間に出勤してしまう。
それは仕方のないことだけど……バルトとの間に見えない壁ができているようで。
抱き枕をベッドに置いて、私はもう片方の手でぎゅっとバルトの手を包み込んだ。
「あなたの側で、あなたが生活する時間を共有したいの。……夜中に目が覚めたときに、隣にあなたがいてくれたら、寂しくないから」
「……。……そうか」
バルトの声が、優しい。
彼の空いている方の手が伸びて、肩を抱かれた。
そっと抱き寄せられると、緑色の双眸と視線が絡み合う。
『リンデ』
子どもの頃に一緒に手を繋いでパーティー会場を歩いていたバルトが、情熱的な目で私を見ている。
そして私も、昔は「可愛い弟みたい」と思っていたバルトに確かな恋情を抱き、その瞳に魅入られている。
何か言われるまでもなく目を閉じると、真っ暗になった視界の中で自分の心臓の音とバルトの息づかいがはっきりと聞こえてきた。
「好き、バルト」
間近に迫る唇の気配を感じてそう囁くと、
「……俺も、君が好きだ」
優しい吐息と共に、唇が塞がれた。




