森の冒険(中編)
「——やだっ! 来ないで! たすけてぇっ!!」
森の奥から届いた幼い叫び声に、三人の身体が同時に硬直した。
「子供の声……!? なんでこんなところに子どもが!?」
ダグが瞬時に丸盾を握り直し、声のした方角へ視線を向けた。ガサガサと激しく草木が踏み荒らされる音と、低く腹に響く凶暴な獣の唸り声が、冬の冷気とともに流れてくる。
「近所のミレット村の子かもしれない……! 木の実やキノコを採りに森に入り込んで、迷子になっちゃったんだ!」
コレットが顔を蒼白にして叫ぶ。
「どうしよう、キース! 今からあたしたちが街まで走って、ギルドに報せに行って……それから討伐隊が来るまで、どれくらいかかる!?」
「……最低でも、往復で四時間はかかる」
キースの言葉に、絶望的な事実が突きつけられた。
四時間。そんな時間があるはずがない。あの悲鳴の主は、あと一分、いや数十秒もすれば魔物の餌食になってしまうだろう。
キースの脳内で、冷徹な思考と熱い感情が激しくぶつかり合っていた。
(僕たちは駆け出しの冒険者だ。回復魔法もない。院長との約束は『即撤退』。ここで見捨てて街に戻るのが、冒険者としての正しいリスク管理だ。そうだろう……?)
だが——キースの脳裏に、孤児院で一緒に暮らす幼いトビーや子供たちの笑顔が浮かんだ。
もし、あの悲鳴を上げている子が自分の弟や妹だったら? 自分たちが「自分たちの無事」だけを優先して見捨てて逃げたら、一生その悔恨を背負って生きていけるだろうか?
「キース……」
ダグが小ぶりのブロードソードの柄に手をかけ、キースを見つめていた。その瞳には、すでに逃げる者の迷いはなかった。
「俺……行くぞ。あの悲鳴を聞いて逃げたら、ガルムの親父に顔向けできねえ。俺は、誰かを護れる本当の『壁』になりたくて特訓したんだ」
「あたしも行く……!」
コレットも震える手で短杖を強く握りしめた。
「あたし、古代魔法の練習したもん! オルランドお師匠様に呆れられたくない! あたしたち、守るために強くなったんだよ!」
二人の真っ直ぐな言葉に、キースの胸のつっかえがスッと消え去った。
キースはふっと自嘲気味に微笑むと、小刀を両手に構え直した。
「……ハッ。まったく、二人とも……」
「キース! じゃあ……!」
「助けに行く。ただし——条件がある」
キースの瞳が、盗賊としての冷徹で冴え渡った光を取り戻した。
「僕たちには院長のような回復魔法はない。持ってきたポーションじゃ、骨折や深い引き裂き傷は治せない。もし誰か一人でも大怪我を負えば、全滅に繋がる」
キースはダグとコレットの目を交互に見つめた。
「だから……一傷も負わずに、無傷で全員叩きのめす。それ以外に勝機はない。無茶な突撃は禁止だ。師匠たちに叩き込まれた『生き残るための技術』を全部出す!……いいね!?」
「「おうっ!! / うんっ!!」」
ダグとコレットが力強く頷いた。
14歳の冒険者たちは、落ち葉を蹴立てて深い森の中へと疾走を開始した。
木々をかき分け、低木を飛び越えて開けた場所へと飛び出すと、そこには目を覆いたくなるような惨状が広がっていた。
巨大な大木の根元。カゴからこぼれ落ちたキノコや木の実が散らばる泥の上で、七歳か八歳ほどの小さな少女が、恐怖のあまり腰を抜かしてガタガタと震えていた。頬は涙と泥で汚れ、悲鳴を上げることすらできずに喉を鳴らしている。
その少女を包囲するようにじりじりと距離を詰めていたのは——漆黒の体毛に覆われ、額から鋭利な一本角を生やした凶暴な魔物の群れだった。
「やっぱり……魔角狼……!」
キースが歯噛みした。深部に生息する魔物。鋭い角による突進と、集団での洗練された連携狩りを得意とする凶暴な肉食獣だ。
群れは全部で四匹。浅層の獲物を求めて降りてきたのだろう、どの個体も空腹で目を血走らせている。特に中央に鎮座する個体は、他の三匹よりも一回り大きく、額の一本角が黒光りしていた。群れのリーダーだろう。
「グルルァッ……!」
リーダー格の魔角狼が、獲物を前にして唾液を垂らし、後脚に力を込めた。まさに少女の首筋へ向けて跳びかからんとした——その一瞬!
「させないっ!!」
ガギィィィンッ!!!!
風を切って飛び込んだダグが、左腕の丸盾を強引に滑り込ませた!
跳びかかってきたリーダー格の鋭い角が、丸盾の表面を掠めて強烈な金属音と火花を撒き散らす。しかし、ダグは正面から受け止めなかった。ガルムから叩き込まれた『受け流し』のアクション——直撃の瞬間に丸盾を傾け、円を描くように払ったのだ。
魔角狼の放った強烈な突進エネルギーはそのまま空を切り、巨体が斜め前へと空中で体勢を崩して地面を転がった。
「きゃあぁっ!?」
「大丈夫か、ちびっ子! 俺たちの後ろに隠れてろ!」
ダグが小ぶりのブロードソードを抜き放ち、少女を背中に庇うように仁王立ちになった。
「ガァァァッ……!」
地面を転がったリーダー格が、素早く体制を立て直し、黄色の瞳に獰猛な怒りを宿して低く唸り声を上げた。残りの三匹の手下狼も、突如現れた獲物を危険視し、扇状に広がって退路を断とうとする。
「ダグ、ナイス! でも無理は禁物だぞ!」
キースが小刀を両手に構え、ダグの左脇へと滑り込む。
「分かってる! ガルムの親父の言う通り、直撃を受け止めたら腕が折れる。全部流すか、かわす!」
「コレット、魔法の準備は!?」
後ろで短杖を構えるコレットの額から、一筋の汗が流れる。
相手は四匹。動きが速く、一匹一匹が自分たちより体格が大きい。前回の戦いのように、無計画に一発撃っただけでヘばり、残りの狼に襲われれば終わりだ。
(落ち着け……焦るなあたし! 無駄な魔力を漏らすな。オルランドお師匠様に教わった通り……極少の魔力で、無駄なく正確に構築する……!)
コレットは深呼吸をし、精神を極限まで研ぎ澄ませた。
「ダグ、キース……時間をかせいで! あたしが光の矢で抑え込む!」
「頼んだぞ、コレット! 僕たちが一本の指すら触れさせない!」
キースの叫びに応えるように、四匹の魔角狼が一斉に牙を剥き出し、疾風のような速度で三人に襲いかかった!
最初に動いたのは、群れの左右から挟み撃ちを仕掛けてきた二匹の手下狼だった。
「ウルルァァッ!」
左側から跳びかかってきた狼に対し、キースは真っ直ぐ立ち向かった。脳裏に刻まれているのは、盗賊ギルドの地下訓練場でシルヴァが見せた、捉えどころのない身こなしだ。
キースはあえて右側の空間へ視線を向け、右足に強く体重をかけた。
(右へ避ける……と見せかける!)
左の狼がキースの嘘の視線と予備動作に反応し、右側の空間を潰そうと空中での軌道をわずかに修正する。——勝負あり。
「『影走り』……っ!」
キースの身体が滑るように左下へと沈み込み、狼の視界から影のようにかき消えた。強烈な爪撃が空を切る。
「ガッ……!?」
空振りに目を見開く狼の腹の下を潜り抜けたキースは、一切の無駄がない動作で小刀の柄頭を狼の急所である顎下へ激しく叩き込んだ。
ゴッ!!
「グルゥッ!?」
脳を揺らす強烈な衝撃に、狼は悲鳴を上げて落ち葉の上を転がった。キースは深追いせず、すぐさま反転して中央の戦線へと意識を戻す。殺すことではなく、無傷で体勢を崩させることが今の最優先事項だ。
一方、右側からの突進と、中央からのリーダー格の猛攻を一身に引き受けたのはダグだった。
「オラァッ! 来いよ、デカブツ!!」
ダグは両足を深く開き、重心を低く落とした。右の手下狼が角を突き立てて迫る。
ダグは丸盾の面を傾け、相手の角が当たる瞬間に外側へ円を描くように払った。
ガギンッ!!
昨日までのダグなら吹き飛ばされていたはずの一撃。その凄まじい突進力が滑るように横へ逸れ、手下狼の巨体が斜め前へと流れる。ダグはその勢いを利用し、丸盾の縁を流れた狼の側頭部へ叩きつけた!
ドカァンッ!!
「ギャンッ!?」
盾の重撃を受けた手下狼が大木へ激しく衝突し、悲鳴を上げて崩れ落ちる。
しかし——リーダー格は甘くなかった。
手下が崩された隙を見逃さず、リーダー格の魔角狼は漆黒の一本角に目一杯の魔力を滾らせ、ダグの防具の薄い左脇腹へと、地を割るような猛烈な勢いで突き込んできたのだ!
ガギギギギギィィィンッ!!!!
「ぐあっ……!? くそっ、重ぇ……っ!!」
ダグは必死に丸盾を滑らせて威力を逃がそうとしたが、あまりの突進エネルギーと重圧に耐えきれず、泥の上をズズズと大きく押し下げられた。受け流しきれなかった凄まじい衝撃が丸盾を通じて左腕を直撃し、骨を痺れさせるような激痛が走る。
「ガアァァァッ!!」
体勢の崩れたダグを逃さず、リーダー格は黄色の瞳をギラつかせ、前脚の鋭い爪を振り上げてダグの首筋へ躍りかかった!
「しまっ……! ダグ!!」
キースが小刀を構えてカバーに入ろうとするが、距離がある。ダグの体制は最悪だ。上からの押しつぶしを喰らえば、確実に丸盾ごと腕が砕け、牙が届いてしまう!
絶体絶命の窮地。
その時、後方で杖を構えていたコレットの瞳が、青く凄絶な光を放った。
(間に合え……っ! あたしの『光の矢』——!!)
(中編・おわり / 後編へ続く)




