閑話~繕い物~
夜の帳が降りた孤児院は、昼間の賑やかさが嘘のように静まり返っていた。
昼間に泥まみれになって駆け回ったダグやキース、そして幼い子どもたちは、すっかり疲れ果てて夢の中にある。小さな寝息が重なり合う部屋を出て、一階の居間。そこにはパチパチと心地よい音を立てて燃える暖炉の火と、橙色の温かな光が広がっていた。
「……コレット、針を刺す時は布地を指でしっかり押さえるのよ。そうしないと、縫い目が寄ってしまうわ」
「はぁい、院長……。うう、ダグのズボンってば、膝のところがボロボロなんだもん。あいつ、ガルムさんとの特訓で転びすぎなんだよ」
大きなテーブルに身を乗り出すようにして、針と糸を格好悪くも必死に動かしているのはコレットだった。その向かい側には、小さな子供たちの服を手際よく手繰り寄せ、淀みない手つきで針を運ぶマーサの姿がある。
静かな夜の居間。木造の床が時折キシと鳴り、窓の外からは秋の夜風が草木を揺らす音が聞こえてくる。14歳になって「もう子供じゃない」と普段は少し背伸びをしているコレットだが、こうしてマーサと二人きりになる時間は、どこか幼い頃に戻ったような穏やかさに満ちていた。
コレットは自分の手元と、マーサの洗練された手元を交互に見比べながら、不器用につぎはぎの布を縫い進めていく。やがて、昼間の激しい魔法の特訓や、オルランドから叩き込まれた様々な知識が頭をよぎり、コレットはふと思いついたように顔を上げた。
「ねえ、院長」
「ん? なにかしら」
「魔法ってさ……ふつう、一日に何回くらい使えるものなの?」
針を動かしていたマーサの手が、わずかに止まった。彼女は長くしなやかなハーフエルフの耳を小さく揺らし、少し困ったような、けれど愛おしむような笑みを浮かべる。
「ふつう、か……。それはね、コレット。その人がどれだけの『魔力』を持って生まれてきたか、そしてどれだけ厳しい『修行』を積んできたかによって、まったく違ってくるのよ」
「やっぱり個人差があるんだ。あたし、前回の戦いだと一発でへばっちゃったし、今日の特訓でオルランドお師匠様に教わった『三点同時照準』も、すごく集中しないと魔力が一気に抜けちゃいそうになるの」
「ふふ、古代魔法は特に世界の改変を強く押し通す術理だから、消費も激しいのよ」
マーサは手元に視線を戻し、慣れた手つきで新しい糸を針穴に通しながら言葉を続けた。
「使う魔法の難易度や種類によっても、疲労はまったく違うの。たとえばね……私の場合だけど」
「院長の場合?」
「そうね。私のような街の神官が使う『軽傷治癒』くらいの神聖魔法なら……体調が良い日で、だいたい六、七回が限界かしらね」
「えっ! そんなに使えるの!? すごい!」
コレットが目を輝かせると、マーサは「そんなことないわよ」と苦笑しながらかぶりを振った。
「六、七回と言っても、それは『軽傷治癒』だけを全力で使い切った場合よ。途中で状態異常を解除する魔法を使ったり、身体能力を補助する加護の術を使ったりすれば、その分だけ回復魔法を使える回数は減ってしまうの。それに、一回使うごとに頭の奥がズキズキ痛むような疲れが溜まっていくのよ」
「へぇー……。じゃあ、もっとすごいお坊様……ううん、大司祭様とかだったらどうなの?」
「そうねぇ……」
マーサは暖炉の炎に視線を遊ばせ、記憶の引き出しをめぐるように目を細めた。
「聖都の大きな神殿にいらっしゃるような最高位の司祭様なら、それこそ十五回以上も奇跡を紡ぐことができるでしょうね。それどころか、私のような神官には逆立ちしても真似できないような奇跡……そうね、戦場で失われた手足を完全に再構築して復元させるような完全治癒魔法すら扱えると言われているわ」
「手足の再生……!? そこまでいくと、本当に神様みたいだね……」
コレットは思わず息を呑み、自分の掌を見つめた。小さな手に宿る、かすかな魔力の温もり。自分もいつか、そんな境地に達することができるのだろうかと、遠い世界に想いを馳せる。
マーサはそんなコレットの横顔を優しく見つめながら、穏やかな声で語りかけた。
「でもね、コレット。どれだけ修行を積んでも、器の大きさ……つまり『生まれ持った魔力の総量』には、どうしても限界があるの。魔力というものは、努力でいくらか増やすことはできても、根底にあるのは生まれ持った『素質』が大きいものなのよ」
「素質かぁ……」
「ええ。その点、コレットは本当に素晴らしい素質を持っているわ。あなたは精霊の声を聞く精霊魔法も使えれば、オルランドが驚くような古代魔法の構成力も持っている。それはね、誰もが望んで手に入れられるものじゃないの。あなたが持って生まれた、とても素敵な宝物なのよ」
「へへ……なんか照れるな」
褒められて鼻の下をこするコレットを見て、マーサはふっと表情を和らげた。そして、手元の繕い物に針を落としながら、ふと遠い目をして、ぽつりと呟いた。
「……私も、この神聖魔法の素質だけは母さんから受け継いだのかもしれないわね……」
それは、ほとんど吐息に近いような、小さく儚いひとり言だった。
だが、普段から精霊の声を聞くために耳を澄ませる癖がついているコレットの鋭い聴覚は、その言葉を逃さなかった。
「え?」
コレットは針をテーブルに置き、身を乗り出した。
「院長、今『母さん』って言った? 院長のお父さんとお母さんのこと?」
マーサはしまったというように目を丸くし、それから「まったく、耳ざといんだから」と苦笑した。
ハーフエルフであるマーサが、自分の過去や親のことについて自分から口にすることは滅多にない。孤児院の子どもたちにとっても、マーサの生い立ちや昔の冒険者時代の話は、どこか神秘のヴェールに包まれた物語のようなものだった。
「ねえねえ、教えてよ! 院長のご両親って、どんな人たちだったの? どんなふうに出会ったの?」
コレットの目が、好奇心で爛々と輝いている。マーサは逃げられないと悟ると、やれやれと肩をすくめ、膝の上の服を丁寧に畳み直した。
「……大した話じゃないわよ? 私の父親はエルフで、母親は人間の神官だったの。二人とも、昔は同じパーティーで世界を旅していた冒険者仲間だったのよ」
「エルフと、人間! すごい、物語に出てくるみたい!」
「ふふ、現実はそんなにロマンチックなものじゃないわ。知っての通り、エルフという種族は大自然の循環の中で何百年も生きるでしょう? だから、特定の『神々』を崇拝するような人間的な信仰心って、ほとんど持ち合わせていないの。世界の理や自然そのものを尊ぶからね」
「うん、本で読んだことある。エルフの人たちって、神殿にお参りしたりしないんだよね」
「そう。私の父親も生粋のエルフだったから、神様の存在なんて鼻で笑うようなタイプだったのよ。……でもね、そんな父が旅の途中で出会ったのが、誰よりも一途に神への信仰を捧げる、人間の神官だった私の母親だったの」
マーサの目が、暖炉の光を映して柔らかく揺れた。
「父親はね、自分には決して理解できない『何か』……自分の中に存在しない圧倒的な信仰心や、他者を深く慈しむ母親の姿を見て、不思議な魅力を感じてしまったらしいの。『自分に無いものを持っている』ってね。それが、恋の始まりだったそうよ」
「へえぇ~! エルフのお父さんから好きになったんだ!」
「ええ。でも、母親のほうも最初は驚いたらしいわ。人間に無い神秘的な美しさを持つエルフから、急に熱烈なアプローチを受けたんだもの。最初は戸惑っていたみたいだけど、父親のまっすぐで不器用な情熱に触れるうちに、どんどん惹かれていったのね」
マーサは「ふふっ」と年に似合わない可憐さで笑った。
「まったく……種族も価値観も全然違うのに、お互いに『自分に無い美しさ』を見つけて好きになるなんてね。冒険者らしい、どこか変で、でもお似合いの二人だったそうよ」
「へぇ……すごく素敵なご両親じゃない! 院長が神格魔法を使えるのも、その優しいお母さん譲りなんだね」
「そうかもしれないわね。私はハーフエルフだから、エルフの長寿や自然との調和の力も少しだけ受け継いでいるけれど……この手に宿る神聖魔法の力は、間違いなく母親から貰った愛の証だと思っているわ」
マーサの言葉には、温かい家族の記憶と、亡き両親への深い敬意が込められていた。
14歳。ダグやキースも含め、彼らはもう「自分たちが親から離れて自分の足で立たなければならない年齢」に近づきつつある。だからこそ、自分のルーツに対する意識が強く芽生え始めていた。
(院長のお父さんとお母さん……種族が違っても、お互いを好きになって、院長を産んだんだ……)
コレットは、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じると同時に、ふと小さな切なさが胸を掠めるのを感じた。
コレットは自分の小さな手を見つめた。
自分には、親の記憶がない。どんな顔をしていたのか、どんな声だったのか、自分がどんな思いでこの世に生まれてきたのか……何一つ知らない。
「あたしの……お父さんとお母さんは、どんな人だったのかな……」
コレットの口から、ぽろりと溢れ出た小さな呟き。
それは、孤児院で暮らす子どもたちが誰しも一度は抱く、けれど決して答えの出ない、切なく愛おしい問いかけだった。コレットの瞳にほんの少しだけ寂しげな影が落ちるのを、マーサは見逃さなかった。
マーサの胸に、ギュッと締め付けられるような不憫さと愛おしさがこみ上げる。
マーサは手にしていた縫い物を静かに横へ置くと、椅子から立ち上がり、コレットの隣へと移動した。そして、その小さな身体を包み込むように、後ろから優しく抱きしめた。
「院長……?」
「コレット。あなたがどんなご両親から生まれたのか、私には分からないわ。でもね……これだけはハッキリと覚えているの」
マーサはコレットの頭を撫でながら、あの日——コレットと出会った日の光景を思い起こすように、愛おしさに満ちた瞳で語り始めた。
「あの日はね、とっても風が強くて……凍えるように寒い冬の朝だったの」
「寒い日……?」
「ええ。私が朝早くに神殿の扉を開けるとね、冷たい石畳の上に、小さな籠が置かれていたの。中を覗き込むと……暖かな毛布に包まれた、生まれたばかりの赤ちゃんがいたわ」
マーサの柔らかな声が、夜の居間に静かに響き渡る。
「外は雪が降りそうなくらい寒かったのにね。その赤ちゃんは、まるで暖かな春の陽だまりの中にいるみたいに……とっても穏やかなお顔で、すやすやと気持ちよさそうに眠っていたのよ」
「……あたしが?」
「ええ、あなたよ。ほっぺたが真っ赤でね、天使みたいに可愛くて……見ているだけで、周りの寒さが全部吹き飛んでしまうような、そんな愛くるしい赤ちゃんだったわ」
マーサはコレットの顔を覗き込み、愛おしそうにその頬に手を添えた。
「捨てられていたなんて、悲しい言い方はしたくないの。きっとね、あなたのご両親も……どうしてもあなたを育てられない深い事情があったけれど、それでもあなたに生きてほしくて、神様の加護がある神殿の前に、祈るような気持ちで預けたんだと思うの」
「祈るような気持ち……」
「そうよ。じゃなきゃ、あんなに暖かな毛布で包んで、あんなに穏やかなお顔で眠っていられるはずがないもの。あなたはね、生まれた瞬間から、たくさんの愛情と祈りに包まれていたの」
マーサの優しく包み込むような言葉と、手から伝わる温もり。
コレットの胸の奥にあった寂しさは、まるで春の光に溶ける氷のように、すうっと消えていった。
「院長……あたし、捨て子だったけど……悲しくないよ」
コレットはくるりと振り返り、マーサの胸にぽすんと顔を埋めた。
「だって、あたしには院長がいるし、ダグもキースもみんながいるもん。あたし、この孤児院が大好き!」
「ふふ、ありがとう、コレット。私もあなたがいてくれて、本当に幸せよ」
マーサはコレットの頭を何度も優しく撫でた。暖炉の炎が二人の影を大きく揺らし、部屋全体を黄金色の温もりで包み込んでいく。
「さあ、しんみりした話はおしまい! 縫い物を終わらせないと、明日ダグが履くズボンがなくなっちゃうわよ」
「あ! そうだった!ダグの穴あきズボン!」
コレットは跳ね起きるように自分の席に戻り、再び不器用な手つきで針を握り直した。
「よしっ、あたしが頑丈に縫ってあげるんだから! 明日の特訓でいくら転んでも破れないように、三重に縫いつけてやる~!」
「ふふ、あんまり頑丈にしすぎて、ごわごわして履けなくしちゃダメよ?」
「大丈夫だってばー!」
静かな夜の居間に、二人の笑い声が軽やかに溶けていく。
明日もまた、子どもたちの元気な声が街に響き渡るだろう。老兵たちとの厳しい特訓、そして三日目に待つ実戦テストへ向けて。少年少女たちは、自分たちを育む温かな愛を胸に、一歩ずつ確かに成長していくのだった。




