血のにおい(後編)
流血シーンがあります。苦手な方はお気をつけください。
「クロちゃん……っ!!」
血の海に倒れ伏し、激しい苦痛に脚をガクガクと震わせるクロ。苦しげに溢れ出る血と、絶望に濁っていく大きな黒目。
その横で、勝ち誇った野盗たちが、不快な爆笑を上げながら大剣を振り上げた。
「ハハハハッ! 馬が一匹死んだくらいでガタガタ抜かすな! 次はお前らの番だ、ボウズども!!」
「死ねやぁぁっ!!」
泥に塗れて横たわるキースと、チェインメイルの肩口から血を流して膝をつくダグ。二人の頭上へ、容赦なく肉を断ち骨を砕く大剣が振り下ろされる——!
「いい加減 覚悟を決めなさい!!」
マーサが素早い動きで腰のポーチから取り出した唐辛子入り目潰しを、野盗たちの顔面めがけて力任せに投げつけた!
パシィィンッ!!
「ぶはぁっ!? 目が……目がぁぁぁっ!?」
「ぎゃあああっ! 痛ぇ、視界が潰れた!?」
目潰しの袋が破裂し、激痛を伴う唐辛子の粉末が野盗たちの両目を直撃した。振り下ろされかけた大剣が大きく逸れ、男たちが顔を押さえて悶絶する。
「あなたたち、だらしのない顔をいつまでしているの!! 甘い考えを今すぐ捨てなさい!!」
駆け寄ったマーサの顔には、いつもの温かな微笑みは欠片もなかった。ハーフエルフとしての美しい瞳には、凍りつくような冷徹さと、かつて冒険者として数多の修羅場を生き抜いてきた凄絶な覚悟が漲っていた。
「見なさい! あなたたちの半端な優しさと怯えが、大切な仲間を……あのお馬さんを傷つけたのよ! 敵はあなたたちを殺しようとしている人間なの! 躊躇えば、死ぬのはあなたたち! 次に死ぬのは後ろにいるコレットなのよ!!殺される前に、相手を無力化しなさい!!」
マーサの腹の底からの絶叫。それが、ダグとキース、そしてコレットの胸の奥で重く冷たく燻っていた甘さという殻を、バリバリと鋭く叩き割った。
(……そうだ……! 俺が……俺が人間に剣を向けるのを怖がってあたから……キースも……クロも……!!)
ダグの視界が、真っ赤な怒りと激痛で染まり上がった。
「う……うおぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!!!」
地を這うような咆哮とともに、ダグは立ち上がった。左腕の中型盾を真正面に構え、目が眩んで闇雲に突っ込んできた野盗の斬撃を、正面から砕かんばかりの力でぶち当てた!
ガギィィィンッ!!!!
「ぐあぁっ!? ガキのくせに、なんだこの馬鹿力は!?」
「俺は……戦士だぁぁぁっ!! 仲間の前に立つ、壁なんだよぉぉっ!!」
受け流し(パリィ)ではない。怒りと覚悟を乗せた純粋な攻撃。野盗の手から大剣が跳ね上がり、がら空きになった胴体へ、ダグのブロードソードが真っ直ぐに突き立てられた。
ズスッ……!!
「が……はっ……!?」
刃が、人間の肉を断ち、肋骨を滑り、奥深くへと突き刺さる感触。手元へ伝わってくる、ぬるりと温かい命の手応え。
ダグは目を血走らせたまま刀身を引き抜くと、男は喉を鳴らしながら地面へと倒れ伏した。
「僕だって!!」
影が走った。
泥を拭い去ったキースが、消音靴の静寂を纏って躍り出た。その瞳からは、迷いも躊躇も消え去っていた。
「……すまない」
キースは短く呟くと、腰の帯から滑らせるようにして魔法のナイフを抜き放った。青い微振動光を纏った刃が、目が痛んで暴れるもう一人の野盗の首筋——シルヴァに覚えさせられた図譜に記されていた、頸動脈へと一直線に滑り込んだ。
ズバッ……!!
「が……ぐ……っ」
皮膚の硬さも、防具の革も関係なかった。微振動する刃は吸い込まれるように首を半ばまで切り裂き、激しい血飛沫が噴き出した。男は首を押さえながら、崩れ落ちるように動かなくなった。
「——許さない……っ!!」
コレットの涙で濡れた瞳が、冷徹な光を宿した。右手の『精神集中の指輪』がまばゆい青光を放ち、オルランドから叩き込まれた魔法の構築が極限まで跳ね上がる。
狙いはスネアで足止めしていた戦士と精霊使い。相手がいくら魔法抵抗を高めようと関係ない。コレットの紡ぐ魔力は、指輪の補助を得て一点に凝縮され、凄まじい力を帯びていく。
「クロちゃんを……クロちゃんを傷つけたアンタたちを……絶対に許さないっ!! 光の矢!!」
短杖の先から放たれたのは、眩い光を撒き散らす二筋の太い光矢!
ドゴォォォンッ!!
光の矢は、敵二人の魔法抵抗を粉々にぶち破り、その胸貫へと一直線に突き刺さった! 強烈な光の衝撃波が二人の身体を穿ち、同時に後ろへと吹き飛ばして地面へ叩きつけた。二人は二度と動くことはなかった。
静寂。
夜の街道に、パチパチと薪が爆ぜる音と、重い息遣いだけが残された。
「ハァ……ハァ……ハァ……っ」
ブロードソードを握りしめたまま、ダグは立ち尽くしていた。
刀身から滴り落ちる、赤黒い液体。足元に転がる、つい先ほどまで暴言を吐き、動いていた人間だったもの。
「あ……が……っ」
ダグは突然激しい嘔吐感に襲われ、その場に膝をついて胃液をぶちまけた。
手元に残る、刃が肉を断った感触。ぬるりと温かい血の温度。自分が、言葉を話す人間の命を、その手で完全に奪ってしまったという恐怖。
「くっ……うぅ……っ」
キースもまた、自分の魔法のナイフを固まった目で見つめていた。指先がガタガタと激しく震え、刀身についた赤黒い血を拭うことすらできない。
「僕の……ナイフ……。こんな、人を……」
コレットは短杖を落とし、その場にへたり込んだ。右手の指輪の青い光が虚しく揺れている。
「あたし……殺しちゃった……。魔法で……人間を……」
三人が強烈な動揺と罪悪感に打ちひしがれている中、マーサは無言で神官杖を手に駆け寄った。彼女が向かったのは子どもたちではなく——苦しそうに息を吐く、馬のクロの傍らだった。
「クロ……! しっかりしなさい!」
「ヒヒン……フヒィン……っ」
クロの右腹は、野盗の精霊魔法、石弾によって痛々しく抉り取られていた。だが、幸いにも深手ではあるものの内臓までは達していない。
マーサは神官杖を構え、聖なる祈りを捧げた。
「神よ……傷つきし生命に癒しの光を! 『軽症治癒』!」
緑の柔らかな光がクロの腹部を包み込み、出血が少し収まる。しかし、一回では傷口を塞ぎきれない。マーサは額に汗を浮かべながら、連続して神聖魔法を紡いだ。
「『軽症治癒』! ……もう一度、『軽症治癒』!!」
三度に渡る神聖魔法の光が重なり合い、クロの痛々しい傷口は綺麗に塞がり、荒かった息遣いが徐々に落ち着いていった。
「クロちゃんっ!!」
コレットが職を振るうように駆け寄り、クロの首筋に抱きついた。
「ごめんなさい……ごめんなさいっ! あたしが……あたしたちが、もたもたして……甘い考えをしてたから……! ごめんなさい……っ!!」
大粒の涙がコレットの頬を伝い、クロの栗色の毛並みを濡らした。
クロは弱々しく頭を持ち上げると、コレットの涙を舐めるように、温かい鼻先をコレットの頬へそっと押し当てた。そしてフヒン、と愛おしそうに小さく鳴いた。
「泣かないで、コレット。傷はちゃんと塞がったわ」
マーサが優しくコレットの背中を撫でた。
「今はまだ自由に動きにくいでしょうけど、村に着いて一週間ほど静かに休ませてあげれば、元通り元気に働けるようになるわ」
「本当……!? よかった……本当によかったぁ……っ!!」
コレットはクロの首に顔を埋め、安堵の涙を流した。
夜が明け、東の空がゆっくりと白み始めていた。
馬車の陰から出てきた農民のガンとビンは、地面に転がる野盗たちの死体を見てゴクリと生唾を呑み込んだ。人が死んでいる光景に慣れていない二人は、その凄惨さに顔を強張らせ、身をすくめていた。
しかし、二人の瞳の中にあったのは、かつてのような子供扱いやハーフエルフへの軽薄な偏見ではなかった。
「……おい、大丈夫か、ボウズ」
ガンが意を決したように歩み寄り、泥と血に汚れたダグとキースの肩を、どんと力強く叩いた。
「凄かったぜ……。最初はガキ扱いして悪かったな。お前たちがいなきゃ、俺たちは今頃間違いなく荷物を奪われて殺されてた。……本物の『冒険者』だ。助かったよ、本当にありがとうな」
ビンの表情も柔らかくなっていた。水筒をコレットに差し出しながら、しみじみと語りかける。
「ああ。こんな小さな子たちに命を救われるなんてな……。感謝しても足りねえよ。クロを命がけで守ってくれたことも、本当にありがとうな」
農民二人からの心からの感謝の言葉。それは冒険者として何より誇るべき賞賛のはずだった。
——しかし、三人の返事はどこまでも重く、暗かった。
「……あ、ああ。無事で……よかったよ」
ダグは力なく笑おうとしたが、引きつった口元はすぐに歪み、視線を足元の土へと落とした。ブロードソードを握りしめていた右手は微かに震えたままで、ガンに叩かれた肩の感触すらまともに受け止められない。
キースも黙って小さく頷くだけだった。感謝の言葉をかけられても胸の奥のモヤモヤは晴れず、ただ新調した革靴のつま先を見つめて口を固く結んでいる。自分の手で断ち切ってしまった人間の脈動の手応えが、ずっと掌にこびりついて離れないのだ。
コレットに至っては、差し出された水筒を受け取る手すらおぼつかず、弱々しく首を横に振るだけだった。
「ううん……あたしたち……」
そう呟いたきり、言葉が続かない。
守るためだった。仲間やクロ、依頼者たちの命を救うためには、あの局面で全力で戦うしかなかった。頭ではそれを理解しているはずなのに、人間の命を奪ってしまったという強烈な現実が、胸の奥を激しく締め付け、どろどろとした罪悪感となって全身を蝕んでいた。
それからの道中、ガンとビンは自分たちで進んで馬車を押し、冒険者たちと共に怪我をしたクロの負担を減らしながら進んだ。二人から見れば、ダグたちは見事に自分たちを守り抜いてくれた頼もしい命の恩人だった。
夕刻、無事に目的地のガルニ村へと到着した。
村長をはじめとする村人たちが大勢駆け寄り、買い出しの品と無事の帰還に歓声を上げた。農民二人から野盗襲撃の顛末と、子どもたちの八面六臂の活躍を聞くと、村人たちは温かな拍手と歓声を三人に送った。
「感謝いたします、冒険者様方! 皆様のおかげで村の冬が救われました!」
「あんな小さな冒険者さんが、野盗を返り討ちにしたのかい!? すごいなぁ!」
村人たちが口々に称え、感謝の言葉とともに村長から約束の報酬が手渡される。怪我をしたクロも村の温かい厩舎へと運ばれ、一週間も休めば元通り元気に働けるようになると聞いて、村人たちはほっと胸を撫で下ろした。
「コレットちゃん、本当にありがとうな! クロのことは任せておけ!」
ガンの明るい見送りの声と、村人たちの温かな笑顔。
だが、報酬の金貨袋を受け取ったダグの手は鉛のように重く、三人は誰一人として誇らしげな顔を浮かべることはできなかった。感謝されればされるほど、自分たちが手を汚してしまったという残酷な事実が浮き彫りになり、三人とも終始うつむいたまま、蚊の鳴くような声で挨拶を返すのが精一杯だった。
四人は村長たちに深く一礼すると、村を逃げ出すようにして、夕暮れの街道をレムリアの街へと引き返していった。
レムリアへの帰り道、茜色に染まる街道を歩く四人の影が、長く伸びていた。
行きとは違う、重苦しく、切ない沈黙。
ダグは自分の右手の掌を何度も開いては握り締め、キースは腰の魔法のナイフの柄から視線を外せずにいた。コレットは短杖を抱えたまま、俯いてトボトボと歩いている。
「……ねえ、院長」
ダグが、今にも消え入りそうな掠れた声でぽつりと口を開いた。
「俺……手が、すごく冷たいんだ。……あの野盗の男の、血の温かさが……まだ手に残ってる感じがするんだ。俺……守るためだったのに、あんなふうに人を殺しちゃって……俺、どうかしちゃったのかな」
キースも消え入るような声で続けた。
「僕のナイフ……あいつの首を切ったとき、嫌な手応えがした。……僕たち……感謝されたけど、全然嬉しくないよ。本当に、正しいことをしたのかな」
ふたりの少年の吐露に、コレットがくっ、と鼻を鳴らして再び涙をこぼした。
「あたし……魔法で人を撃っちゃった……。あたし、恐ろしいことしちゃったのかな……」
三人の胸を苛む、人を手にかけてしまったという強烈な動揺、罪悪感、そして「守るためだった」という気持ちと感謝の言葉……そのギャップに対する割り切れなさ。
マーサは足を止め、ゆっくりと振り返った。
茜色の夕日を背に受け、マーサは三人の少女と少年たちを、その華奢な両腕で力いっぱい抱きしめた。
「辛かったわね。……怖かったわね」
マーサの温かな温もりと、ハーフエルフの優しい匂いが三人をつつみ込んだ。
「ダグ、キース、コレット。……あなたたちが感謝されても素直に喜べず、そんなふうに深く苦しんでいるのはね、あなたたちが優しい心を持った人間であるという何よりの証拠よ」
マーサは三人を抱きしめたまま、その顔を順番に見つめ、いつになく厳しく、けれど慈愛に満ちた強い眼差しで言い含めた。
「人を手にかけて何とも思わない人間なんて、ただの怪物よ。人を傷つけてしまった痛みを忘れないこと……それが、相手の命を奪って生き残った者が、一生背負っていかなければならない重みなの」
「重み……」
「そうよ。……でもね、三人に言っておかなければならないことがあるわ」
マーサは少し身体を離し、三人の目をまっすぐに見据えた。
「今回、あなたたちはパニックになって、手加減をする余裕もなく相手の命を奪ってしまったわね。……いい? もしもあなたたちが、これからも人を殺めたくないと本気で願うのなら……冷静になりなさ』」
マーサの言葉に、三人は息を呑んだ。
「戦いの最中で焦り、恐怖に呑まれ、感情に任せて武器や魔法を振り回すから、殺すか殺されるかの極端な結果にしかならないのよ。人を殺めたくないのなら、誰よりも冷静に敵を観察し、的確に無力化しなさい」
「無力化……」
ダグが呟くと、マーサは深く首を縦に振った。
「そうよ。相手の武器を持つ手首を狙う、足の筋を切って走れなくする、気絶させる、魔法で無力化する……。命を奪わずに敵の戦闘力を奪うことこそ、実は相手を殺すことよりも遥かに難しく、高度な技術と圧倒的な冷静さを必要とするものなの」
マーサの教えは、三人の心に冷たい水のように染み渡っていった。
「殺したくないと泣くだけなら、ただの甘えよ。本当に命を奪いたくないのなら、強くなりなさい。焦らず、恐れず、敵を正確に無力化できるだけの技量と冷徹なほどの集中力を身につけなさい。それこそが、優しいあなたたちが目指すべき、真の強さなのよ」
「……っ!」
ダグとキースの瞳に、衝撃とともに小さな光が宿った。
泣いて逃げるのではなく、殺さないためにこそ、もっと強くなる。それがマーサの提示した、果てしなく厳しい、けれど唯一の救いの道だった。
「あなたたちが躊躇いを捨てて戦ったからこそ……あなたたち自身も、私も、ガンさんたちも、そしてクロも生きて帰って来られたの。ガンさんたちも心から感謝していたでしょう? あなたたちのしたことは決して間違いではなかったわ。……だから、自分を責めすぎないで」
マーサは三人の涙を、自分の指先で優しく拭ってあげた。
「冒険者として生きるということは、綺麗事だけじゃないわ。泥を被り、血を浴びて、それでも大切なものを守るために立ち上がり続けること……。あなたたちは今日、その残酷な扉を開けたのよ。……でもね」
マーサは微笑んだ。
「どんなに手が血で汚れても……どんなに恐ろしい思いをしても。帰ってくる場所は、ここにあるわ。私が……孤児院のみんなが、いつだって温かいスープを用意して、あなたたちを抱きしめてあげられる」
「院長……っ!!」
ダグがマーサの胸に顔を埋めて泣いた。キースも、コレットも、マーサの服の裾を強く握りしめて、溜め込んでいた感情を爆発させるように泣き明かした。
悲しみと、恐怖と、そして「殺さずに守る強さを手に入れる」という新たな覚悟。
三人は涙を流しながら、自分たちが真の冒険者としての第一歩を踏み出したことを、静かに噛み締めていた。
四人がレムリアの街へ戻ってきたとき。
『荒ぶる猪亭』の店先で腕を組んで待っていたガルムは、四人の立ち姿を見た瞬間、無言で満足そうに頷いた。
「……ふん。少しは、いい面構えになったじゃねえか」
ガルムの言葉に、ダグは力強く笑ってみせた。
「へっ……当たり前だろ、ガルムの親父。俺たちは……マーサ院長の孤児院の冒険者なんだからな!」
三人はマーサとともに、温かな橙色の光が待つ自分たちの家へと歩みを進めた。
血のにおいを知り、命の重みを背負った彼らの物語は、より強く、より高く、明日という未来へ向かって紡がれていくのだった。




