血のにおい(中編)
流血シーンがあります。苦手な方はお気をつけください。
東門の広場には、まだ朝靄が立ち込めていた。
薄寒い空気が肌を刺すなか、広場の隅に一台の大きな木造馬車が停まっていた。荷台には、冬を越すための穀物袋や塩漬けの樽、農具などが所狭しと積み上げられている。
その馬車を引いていたのは、くりっくりとした大きな黒目と、艶やかな栗色の毛並みを持った一頭の牝馬だった。
「わぁ……! すっごく綺麗なお馬さん……!」
コレットが思わず声を弾ませ、小走りで馬の傍へと寄り寄った。馬は鼻をフンと鳴らし、コレットが差し出した手の上に、親しみを込めて温かい鼻先をすり寄せた。
「よしよし、いい子ね……。これから一緒の旅路ね。えらいねぇ」
コレットが目を細めて首筋を優しく撫でると、馬は気持ちよさそうに目を細めた。
だが、そんな温かな光景をぶち壊すように、苦々しいダミ声が上がった。
「おいおい……冗談じゃねえぞ。一体どういうつもりだ、おい?」
荷台の影から現れたのは、革の胴着を着た中年男二人だった。ガルニ村から買い出しに来たという農民である。髭面の背の高い男がガン、小太りの男がビン。二人とも不機嫌そうに眉をひそめ、マーサたちの全身をぶしつけに見分めた。
「冒険者の店のマスターが『手頃な護衛を手配してやる』って言うから期待して待ってりゃ……現れたのはガキばかりじゃねえか!」
ガンが唾を吐き捨て、ダグとキースを指差した。
「おい、ボウズ。剣なんて重そうなもん腰にぶら下げて、チャンバラごっこでもしにいく気か? 護衛代だってタダじゃねえんだぞ。村の共同財産の馬車と買い出し品がかかってんだ! こんなおままごとに付き合わされてたまるか!」
「なんだと……!?」
ダグの眉根が跳ね上がり、頭に血が上った瞬間、マーサがすっと手を出して制した。
「私どもは、冒険者の店のマスターから正式にこの依頼を引き受けたパーティです。彼らは若いですが、すでに数々の修羅場を潜り抜けてきた立派な冒険者ですよ」
マーサが穏やかに微笑んで足を進めると、小太りのビンが今度はマーサの耳と顔立ちをジロジロと眺め回し、せせら笑った。
「ヘッ……よく見りゃ、連れはハーフエルフの女じゃねえか。ハーフエルフなんてのは長生きなだけで、いざとなると腰が引けて役に立たねえってのが相場だ。……まったく、安物買いの銭失いとはこのことだな」
言葉に混じる、露骨な偏見と見下し。
ダグとキースが怒りで拳を握りしめ、コレットも悲しそうな顔でマーサを見上げた。だが、当のマーサの表情はぴくりとも動かなかった。長年ハーフエルフとして冒険者をしてきた彼女にとって、この程度の蔑称や偏見は受け流せることに過ぎない。
「評価は、ガルニ村へ無事に到着してからにしていただきましょう。……さあ、日の出前に出発しますわよ」
マーサのどこか底知れぬ威厳に押され、ガンとビンはチッと舌打ちをすると、馬車の御者台へと乗り込んだ。
「へっ、野盗が出たら俺たちを置いて真っ先に逃げ出すんじゃねえぞ!」
捨て台詞とともに御者縄が振られ、ガラガラと重い車輪の音が街道に響き始めた。
街道を進むにつれ、冬になりはじめの風景がゆっくりと流れていく。
最初の数時間は気まずい静寂が続いていたが、子どもたちの真面目な仕事ぶりに、農民二人の毒気も少しずつ抜けていった。
ダグは盾を構えやすい位置に維持したまま、常に馬車の斜め前方を警戒して歩く。キースは周囲の気配に鋭く気を配りながら歩き、見通しの悪いカーブや草むらの手前では先行して安全を確認していた。二人とも、新調した小弓をいつでも背中から引き抜けるよう、矢筒の位置を微調整している。
その無駄のない動きと真剣な目つきに、御者台のガンが不満そうに鼻を鳴らしつつも、ぽつりと呟いた。
「……へっ。格好だけは、そこらの駆け出しよりマシに見えるじゃねえか」
「まあな。まあ、野盗が出なけりゃそれでいいんだ。おい、そこのハーフエルフ。このペースでも村まで三日で着くんだな?」
ビンの問いかけに、マーサは穏やかに頷いた。
「ええ。天候が崩れなければ、明後日の夕刻にはガルニ村の境界に入れますわ」
一方、コレットは馬車の横を歩きながら、馬とすっかり仲良くなっていた。移動の合間に街道沿いの柔らかい草を摘んでは「ほら、美味しい草だよ」と食べさせてあげたり、水筒の水を手で受けて飲ませてあげたりしている。
「コレットちゃん、だっけか? お前さん、ずいぶんその馬を気に入ったみたいだな」
ガンが御者台から言った。コレットはパッと顔を上げ、えへへと微笑んだ。
「うん! すっごく賢くて優しいお馬さんだもん! 名前はあるの?」
「村じゃ『クロ』って呼んでる。まあ、村の備品みたいなもんだがな。買い出しの重い荷物を黙って引いてくれる、頼もしいやつさ」
「クロちゃんっていうんだ! クロちゃん、がんばってね!」
コレットが優しく首を撫でると、クロは嬉しそうにフヒヒンと小さく鳴いた。殺伐としていた道中に、ほんのりと温かな空気が流れ始めた。
一日目の行程は何のトラブルもなく過ぎ、やがて街道沿いの開けた平原で野営を迎えることとなった。
馬車を風除けにして焚き火を興し、干し肉と黒パンの素朴な夕食を済ませた後、マーサは見張りの順番を宣告した。
「今夜の見張りは、三交代で行います。最初は私、二番目はキース、そして最後の一番深い時間から明け方までは、ダグとコレットの二人で立ちなさい」
ダグが疑問そうに頭を掻いた。
「院長、なんでコレットと院長が最初と最後なんだ? 魔法を使う二人は、真ん中でゆっくり寝た方がいいんじゃないのか?」
「いいえ、ダグ。これにはちゃんとした理由があるのよ」
マーサは指を立てて、優しく、けれど論理的に説明した。
「魔法使いが使う魔力や精神力は、途中で起こされると十分に回復しないの。睡眠時間をぶつ切りにせず、深く眠る必要があるのよ。だからコレットは、最初にしっかり眠ってから、後半の見張りに立つのが一番理に叶っているわ。そして私は毎朝、神さまへの祈りを捧げる日課があるでしょう? 早朝に目を覚ます必要があるから、一番最初の見張りを務めるのが効率的なのよ」
「へぇ……! 魔法使いの寝方にも、そんな理由があったんだな!」
ダグは感心したように頷き、キースも「勉強になるよ、院長」と手帳にメモを走らせた。
こうして、合理的なローテーションのもと、一日目の夜は静かに更けていった。
長年の冒険で培われたマーサの熟練の見張りから、耳を澄ませて周囲の微細な気配を察知するキースの第二交代へ。そして最後、朝靄が立ち込め始める直前にダグとコレットが交代し、何事もなく無事に朝日を迎えることができたのだった。
二日目の道中も、拍子抜けするほど穏やかであった。
「へっ、拍子抜けだな! 野盗が出るなんて噂、ガセネタだったんじゃねえのか?」
ガンが御者台で足を組み、気楽そうに笑った。ビンの緊張も完全に緩み、干し肉をかじりながら欠伸を噛み殺している。
しかし、マーサたちの緊張は逆に跳ね上がっていた。
「油断しないで、三人とも」
マーサが低く囁く。
「ガルニ村の境界に近づくにつれ、街道の見通しが悪くなっているわ。野盗にとって、襲撃するなら明日村に入る直前……今夜か明日の朝方が一番の狙い目よ」
ダグは黙って新調された中型盾のグリップを固く握り直し、キースは研ぎ澄まされた感覚で周りの気配を探り続けた。コレットも、右手の精神集中の指輪をぎゅっと撫でて気を引き締めた。
そして、二日目の夜が訪れた。
明日には村に着くという最後の野営地。街道脇の小高い丘の麓、大きな岩の陰に馬車を停め、焚き火をして夜を迎えた。
一番手のマーサが無事に交代を終え、二番手の気配感知に長けたキースも異常なしと報告してダグを起こす。
深夜を過ぎ、最も闇が深く静まり返る午前三時過ぎ。
最後の見張り交代として、ダグとコレットが焚き火の傍らに座って辺りを警戒していた。
「……ふわぁ。コレット、眠くないか?」
ダグが小声で尋ねると、コレットは短杖を両手でしっかり握りしめ、パチパチと目を瞬かせた。
「うん、大丈夫! 院長先生に言われた通り、前半しっかり眠ったから頭がスッキリしてるよ!」
「そうか。へへ、明日村に着けば、この依頼も終わりだな。……なーんだ、野盗なんて拍子抜けだったな」
ダグが盾を肩に担ぎ直し、ふっと息を抜いたその瞬間であった。
コレットのうなじが、かすかに冷たく脈打った。
(……え……?)
コレットは首を傾げ、周囲の深い闇を見つめた。
風が吹いている。夜風が、周囲の草木をサワサワと揺らしている。……しかし、おかしい。
(風が……泣いてる? ううん、違う……風の精霊の声が、あそこの草むらからだけ……パタリと消えてる……!?)
コレットが生まれ持った精霊の気配を感じ取る感性。自然な風であれば、草葉の触れ合う音や匂いが流れてくるはずだ。だが、前方三十メートルほどの闇の草むらからだけ、一切の音が遮断され、不自然な無音の空間が滑るようにこちらへ近づいてきていた。
風の精霊魔法——『静寂』。音を完全に消し去り、気配を殺して接近する奇襲にも活用できる魔法である。
「ダグっ……!!」
コレットの顔から一瞬で血の気が引いた。
「風がおかしい! 何か来る……! 音を消して、すぐそこまで来てる!!」
「なっ……! 敵か!!」
ダグの全身の毛髪が逆立った。ダグは即座に中型盾を正面に構え直し、腹の底からの大声を張り上げた!
「奇襲だぁぁぁっ!! 院長! キース! 起きろぉぉっ!!」
「な、なんだ!? 何事だ!?」
馬車の陰で寝ていたガンの悲鳴が上がり、同時に干し草の上からマーサとキースが飛び起きた!
直後——コレットが指差した闇の草むらから、無音の空間が弾け飛んだ!
「チッ……ガキのくせに気づきやがったか!」
「構うな、殺せぇぇっ!!」
闇の中から躍り出たのは、汚れた革鎧に身を包み、赤黒い血汚れのついた大剣や斧を構えた三人の男たち。そして、その後方から素早く距離を取る、ボロ布のフードを深々とかぶった小柄な男——合計四人の野盗であった!
不気味な殺気が、真夜中の空気を極寒へと凍りつかせる。
「くっ……『捕らえよ、地の蔦! 『スネア』!!』」
コレットが間一髪の、短杖を突き出した。右手の指輪が青く輝き、精霊魔法が完璧に構築される。
野盗たちの足元の土が跳ね上がり、太い植物の蔦が生き物のように蠢いて、先頭の戦士一人と、後方の精霊魔法を使ったであろうフードの男の両脚へ激しく巻き付いた!
「ぬおおっ!? 足が……動かん!?」
「なっ……精霊魔法だと!?」
一瞬にして敵の二人を機能不全に追い込んだ、完璧な足止め。
「コレット、ナイスだ!!」
ダグが咆哮を上げ、新調した中型盾を前に突き出して飛び出した! キースも素早く距離を詰め、腰の小刀を引き抜いて敵の戦士へ向かって躍り出る!
勝機であった。コレットの足止めにより、敵は分断され、数的には完全にこちらが優位に立っていた。
——しかし。
「……っ!?」
ダグのブロードソードが、目の前の野盗の首元へと向かったその瞬間。
ダグの腕が、金縛りに遭ったかのようにぴたりと止まった。
目の前にいる男の、無精髭に覆われた引きつった顔。激しい息遣い。濁った眼光。「ガキがぁっ!」と叫ぶ、自分たちと同じ人間の声。
(……人……間……!?)
昨日、マーサから口酸っぱく言い聞かされた言葉が脳裏を駆け巡る。だが、頭で理解していることと、実際に刃を「生きた人間」の肉へ突き立てる感覚は、全く別物であった。
ほんの、息つく間もないような躊躇。自分の剣が人間を切り裂くイメージに対する、身体の深い場所からの強烈な拒絶感。
その一瞬の甘さを、百戦錬磨の野盗が見逃すはずもなかった。
「甘えんだよ、ガキがぁっ!!」
ガシャァァンッ!!
野盗の振るった粗悪な大剣が、ダグの甘い踏み込みを弾き飛ばし、新調したチェインメイルの肩口を強く薙ぎ払った!
「ぐあぁぁっ!?」
鈍い衝撃と激痛が走り、ダグが地面の上を転がる。鎖帷子が刃を防いだものの、衝撃で肩の肉が潰れ、赤黒い血が溢れ出した。
横から飛び込んだキースの小刀も、相手の首筋を捉えていた。だが、キースの指先もまた、土壇場で僅かに震えた。魔法のナイフの青い振動刃が、相手の皮膚に触れる直前で止まってしまったのだ。
「甘いぜ、ボウズ!!」
野盗が強引に腕を振り払い、キースの腹部を脚蹴りで吹き飛ばす。
「がはっ……!?」
キースが地面を転がり、新しい革靴が泥に塗れた。
コレットもまた、パニックに陥っていた。
スネアで足を止めた精霊使いと戦士。そこに『光の矢』を叩き込めば、一撃で勝負は決まるはずだった。だが……短杖を構えたコレットの指先が、ガタガタと激しく震えて動かない。
(撃てない……っ! 人間に……あんな恐ろしい魔法を撃ったら……死んじゃう……っ!!)
「撃ちなさい、コレット! このままじゃ!!」
マーサの叫びも、コレットの耳には届かない。
その躊躇の隙に、足止めされていた野盗の精霊使いが、凄惨な笑みを浮かべて詠唱を完了させていた。
「へっ……甘ちゃんどもが! 大地の精霊よ、穿て! 『石弾』!!」
精霊使いの掲げた手から、握り拳ほどの鋭利な岩の塊が、砲弾のような速度で放たれた。
その射線上にいたのは——人間たちではなかった。
馬車の横で、恐怖に身を縮めて震えていた、あの可愛い栗毛の牝馬——クロであった。
ズドォォォォンッ!!
「ヒヒィィィィィンッ!!!!」
夜の街道に、引き裂かれるような馬の凄惨な悲鳴が響き渡った。
鋭利な石弾が、クロの右腹を無残に打ち砕いた。腹を深く抉られたクロは、崩れるように地面へと倒れ伏し、脚をガクガクと震わせて悶絶した。
「クロちゃんっ……!!??」
コレットの絶叫が、真夜中の空気を切り裂いた。
「ヒヒン……フヒィン……っ」
血を吐きながら、苦しそうにコレットを見つめるクロの濁った瞳。
その横で、自由を取り戻した野盗の戦士たちが、不気味な殺気を撒き散らしながら、傷ついたダグとキースへ向かって大剣を振り上げようとしていた。
「ヘッヘッヘ……馬がこうなりゃ逃げられまい。まずはあのボウズどもから細切れにしてやるぜ!!」
絶望。
子どもたちの「甘さ」と「躊躇」が招いた、あまりにも凄惨で残酷な現実が、夜の街道をドス黒く染め上げていた。




