血のにおい(前編)
ミレット村での過酷な古代遺跡探索から帰還して二日。レムリアの街に注ぐ冬初旬の陽光はどこまでも澄み渡り、街道を吹き抜ける風には爽やかな冷気が混じり始めていた。
下町の静かな区画に佇む『レムリア魔法使いギルド』の重厚な応接室にて、マーサたち四人は革張りのソファに腰を下ろしていた。
テーブルの上に鎮座しているのは、古代遺跡の台座からコレットが魔導書を解読して競り上がらせた、あの黒く光る漆黒の宝石——古代の魔導具『光石』である。
「……ふむ。内部に蓄積された魔力核は幾分か摩耗しておりますが、保存状態は極めて良好。コマンドワードによる発光構造も、古代王国の純正技術に間違いございません」
魔法使いギルドの鑑定術士が、ルーペを眼から外して深々と一礼した。
「回数制限付きの光源魔導具として、当ギルドで買い取らせていただきます。提示額は……金貨三十五枚。いかがでしょう?」
「き、金貨三十五枚……!?」
隣で座っていたダグとキースが思わず立ち上がりかけ、コレットは小さな口を「あ」の形に開けて絶句した。
金貨一枚で、普通の家庭がひと月裕福に暮らせる額である。三十五枚といえば、孤児院の全員が冬を越し、春先までの薪、食料、新しい服や靴を買い揃えてもなお、お釣りが来るほどの莫大な大金であった。
「……ええ、結構ですわ。よろしくお願いいたします」
マーサが淑やかに頷き、受領書に署名を走らせる。
ずっしりと重い金貨の袋を受け取ったマーサは、安堵の息とともに胸の前で小さく手を合わせた。これで、子どもたちに寒い思いをさせずに済む。
手続きを終えた帰り際、ギルドの購買部に並ぶ魔導具を眺めていたコレットが、ガラスケースの中の小さな銀の指輪の前で足を止めた。不規則な細工が施された青い小粒の水晶が嵌め込まれている。
「コレット、それが気になるの?」
「あ、うん。この指輪がちょっと……」
案内のギルド員が微笑んだ。
「お目が高いですね。それは『精神集中の指輪』です。装着者の雑念を払い、術式の構築時に精神を安定させる効果があります。駆け出しの術士様には打ってつけですよ」
マーサはコレットの頭を優しく撫で、ギルド員に言った。
「その指輪いただきますわ。頑張ったコレットへの、ご褒美ね」
「えっ……! 院長、いいの!?」
「ええ、もちろんよ。集中力が高まれば、あなたの『光の矢』も『防御壁』も、もっと正確に紡げるようになるわ」
指輪を買い求め、右手の薬指に嵌めたコレットは、誇らしげに何度もその小さな輝きを見つめては、嬉しそうに頬を緩ませていた。
ギルドを出た四人は、続いて下町の『荒ぶる猪亭』の周辺へと向かった。
この街には、あらゆる武器や防具を一括で扱うような『専業の武器屋』といった店は存在しない。武具を手に入れるには、冒険者の店の周囲に立ち並ぶ腕利きの鍛冶屋や革細工職人の工房を直接訪ね歩くのが常であった。
今回の大きな成果と報酬の一部を使い、前衛として命を張ったダグと、手傷を負いながらも鋭く立ち回ったキースの装備を新調する。
「よし……ダグ、まずはあなたね」
『荒ぶる猪亭』の裏手にある『鉄槌工房』で、頑固そうな鍛冶職人がダグの全身をまじまじと見定めた。ゴーレム戦でボロボロに破れ、歪んでいたダグの丸盾とレザーアーマー。ダグはガルムから受けていた「前衛の防具選び」の教えを思い出しながら、工房の壁に掛けられた武具を真剣な目つきで吟味した。
「親方、俺は正面から重さを受けるタイプじゃねえ。衝撃を殺して、流すための盾が欲しい。それと、動きを阻害しない程度に肋骨と肩を守れる鎧だ」
「ほう……ガキのくせに良い眼をしてやがる」
鍛冶職人が奥から出してきたのは、上質な鍛鉄で補強された、鈍く光る木製の中型盾と、精巧に編み込まれた新型の鎖帷子であった。丸盾よりも一回り大きく、腕のラインに沿って滑らかな曲面がつけられている。
「これの盾は、敵の斬撃や打撃の芯を外しやすいように曲率が計算されておる。チェインメイルも繋ぎ目に柔軟な革を挟んであるから、跳ねても擦れ音が響かねえ」
ダグが新しい盾を左腕に装着し、軽く振ってみる。しっくりと腕に馴染む重量感と、伝わってくる確かな頑丈さ。
「……すっげえ。これなら……ゴーレムの鉄槌だって、もっと綺麗にパリィできる……!」
ダグの目が熱く昂ぶった。
隣の革工芸店では、キースが手に入れた『魔法のナイフ』——刃先が青く微振動し、あらゆる装甲を切り裂く古代の遺物——を収めるための専用ホルダーを新調した。
やわらかくなめされた黒革の特注ホルダーは、逆手でも正手でも、指先一本の引っ掛かりで吸い付くように鞘から滑り出る特殊な構造が仕込まれている。さらに、靴底に消音用の特殊な毛皮が貼られた隠密用の革靴も揃えられた。
「……すごいな。足音が……完全に消える。ナイフもずっと速く手に収まるよ」
キースは新しい靴の感触を確かめ、静かに、けれど誇らしげに腰の小刀と魔法のナイフを撫でた。
二人の買い物がひと通り終わったところで、マーサがふと思い出したように二人の顔を見つめた。
「そういえば、ダグ、キース。二人とも、弓矢は扱えるかしら?」
「え? 弓矢……? 俺、剣と盾があるから使ったことねえや」
「僕も……スカウトの真似事として、投げナイフの練習くらいしかしてないよ」
マーサは二人に向き直り、真剣な表情で言った。
「今回の遺跡でもそうだったけれど、敵に近付く前に遠距離から牽制したり、接近できない状況で間合いを詰めるために、弓矢は冒険者の必須の嗜みよ。今回の稼ぎで余裕があるのだから、狩猟用の小弓と矢筒を一式買い揃えておきなさい。これからは遠距離の訓練も始めましょう」
「なるほど……遠くから敵の足止めができるなら、前衛に入る前のアプローチにも使えるな。分かった、院長!」
「僕も弓の扱いも覚えるよ」
二人はマーサのアドバイスに従い、弓職人の店で頑丈な木製の小弓と、数十本の矢が入った矢筒を購入し、背中に背負った。
新調された装備に身を包み、一歩大人に近づいたような誇らしさを胸に、四人はそのまま『荒ぶる猪亭』の店内へと入っていった。
昼下がりの『荒ぶる猪亭』は、まだ客も疎らで、酒と煮た肉の匂いが漂っていた。
カウンターの奥で巨大なジョッキを洗っていた店主——かつてマーサと一緒にパーティを組んで冒険していた仲間、元戦士のガルムが重厚な体を揺らして振り返る。その隣のテーブルには、同じく昔馴染みでキースにスカウトの技を教えたシルヴァと、コレットに魔法の特訓をした元術士の老オルランドが座っていた。
「おう、マーサ。帰ったか。……ほう、ガキどもの面構えと装備が少しはマシになったじゃねえか」
ガルムが太い腕を組み、ニヤリと不敵に笑う。
「ガルムの親父! 親父の言った通りだぜ! アイアンゴーレムの鉄槌、腕甲と丸盾でパリィして流してやったんだ!」
ダグが身を乗り出して胸を張ると、ガルムは鼻で「ふん」と笑い飛ばした。
「バカめ。あの程度のデカブツの攻撃を受け流したくらいで調子に乗るな。だが……左腕をへし折られずに生き残って帰ってきたことだけは、褒めてやる」
口では厳しく言いながらも、ガルムの目元には確かな誇らしさが浮かんでいた。ガルムはカウンターの下からドカンと巨大な豚肉の固まりを取り出すと、豪快にナイフで削ぎ切りにしてダグの前に突きつけた。
「食え! 前衛なら肉を食って骨を太くしろ!」
「ありがとうございます! いただきます!」
一方、シルヴァはキースが腰に差した新しいナイフホルダーと魔法のナイフを、無言のまま鋭い眼光で見つめていた。
「……古代の微振動刃か。いい物を拾ったな、キース」
「シルヴァさん! これ、遺跡の仕掛けを見抜いて手に入れたんです!」
「ふむ……。合格だ。だが道具に頼るなよ。刃がどれほど凄まじかろうと、それを敵の隙間に滑り込ませる動きが鈍ければ、ただの鉄くずだ」
シルヴァはそう言いながらも、懐から古びた小冊子を取り出し、キースの前にそっと滑らせた。
「……俺が昔使っていた、人間の関節と脈動の急所を記した図譜だ。今ここで頭にいれろ。スカウトには記憶力が不可欠だ」
「……! ありがとうございます、シルヴァさん!」
キースが目を輝かせて小冊子を胸に抱きしめる。
そして、オルランドはコレットの右手に輝く精神集中の指輪を満足そうに頷きながら眺めていた。
「ふむ……『光の針』を成功させ、『防御壁』の展開もできたか。訓練の成果を見事に実践したようじゃな。その指輪も良い物を選んだ。精神が安定すれば、魔法の構築はさらにブレなくなる」
「うん! お師匠様! あたし、今までに無いぐらい集中したよ! みんなが道を作ってくれたから魔法が当たったの!」
「素晴らしい。威力を誇る大魔法など必要ない。仲間と協力し、必要な時に必要な一点を穿つ……それこそが真の術士の姿じゃよ」
オルランドはコレットの頭を優しく撫で、目頭を熱くしていた。
マーサはかつての冒険仲間たちに特製の麦酒を奢り、深々と頭を下げた。
「ガルム、シルヴァ、オルランド……本当にありがとう。あなたたちが根気強くあの子たちを鍛えてくれたおかげで、全員が無事に帰って来られましたわ」
「へっ、礼なら酒で受け取るぜ、マーサ」
ガルムがジョッキを煽り、グビグビと酒を飲み干す。しかし、ジョッキをテーブルに置いた瞬間、ガルムの鋭い眼光がマーサへと向けられた。
「……で、マーサ。これからどうする気だ?」
ガルムはチラリと、楽しそうに肉を頬張るダグたち三人に視線を送り、それから声を低く落とした。
「あいつらは確かに成長した。ゴーレムやゴブリン相手には、立派に腹が括れるようになったさ。……だがな、マーサ。あいつらはまだ『人間』を切ったことがねえ」
マーサたちを取り巻く空気が、ピリリと張り詰めた。
「そうね……人間をね…」
「そうだ。冒険者として生きていく以上、避けて通れねえ壁がある。マーサ、お前さんだってよく知ってるだろ。魔物だけが敵じゃねえ。この世界で一番厄介なのは、いつだって同じ二本足で歩く人間だ。……あいつらは根が優しすぎる。相手が悪人だろうと、刃で人間を割り裂くことに躊躇するはずだ。そしてな、対人戦での一瞬の『甘さ』と『躊躇』は……そのまま自分たちの死に直結する」
ガルムの言葉に、シルヴァも静かに頷いた。
「……そうだ。魔物は咆哮を上げて突っ込んでくるが、人間は死んだふりをし、命乞いをしながら背中を刺す。相手を完全に無力化するか、息の根を止める覚悟がなければ、返り血を浴びるのはこちらだ」
マーサは胸の奥がキュッと締め付けられるような痛みを覚えた。
調和神を信奉するの神官として、命を慈しむ者として、子どもたちに殺生などさせたくない。だが……かつて彼らと一緒に修羅場を潜り抜けてきたマーサ自身、ガルムたちの言うことが真実であることも痛いほど理解していた。
「……ちょうどいい仕事がある」
ガルムがカウンターの奥から一枚の依頼書を取り出し、テーブルの上に置いた。
「隣の『ガルニ村』から、レムリアの街に冬の買い出しに来ていた農民が二人いる。買い出しの品を積んだ馬車を引いて、片道三日の道を村まで帰るんだが……その『護衛依頼』だ」
「ガルニ村への街道……あそこは、最近……」
マーサが眉をひそめる。
「ああ。タチの悪い野盗が出没している。護衛のついてねえ無防備な商人や旅人を襲い、荷物を奪って殺しやがる悪党どもだ。警備兵を派遣する噂もあるが、領主の動きが遅くてまだ実現していねえ。……護衛がついている馬車にはめったに手を出さねえが、絶対に襲われないという保証はねえ」
ガルムはマーサの目を真っ直ぐに見ぜた。
「これは、ただの護衛じゃねえ。あいつらに対人戦の空気を吸わせるための試練だ。マーサ、あんたも一緒に行くだろ? あの子らの甘さを叩き直すには、最高の機会だ」
マーサは深く息を吐き出し、しばらく思案した。そして、静かに首を縦に振った。
「……分かりました。その依頼、私たちが受けましょう」
「よし。依頼人は明日の早朝、東門の広場で待っている。……叩き込んでやれよ、マーサ。命のやり取りの本当の恐ろしさをな」
その日の夜、孤児院の居間。
年少組の子どもたちを寝かしつけた後、マーサはダグ、キース、コレットの三人を暖炉の前に集めた。
テーブルの上には、明日からの護衛依頼の書類が広げられている。新調されたばかりの綺麗な装備や、新しい指輪、弓矢を前にして、どこか誇らしげで浮き足立っている三人に、マーサは今までにない厳粛な、刃のような鋭い声を投げかけた。
「ダグ、キース、コレット。……よく聞きなさい。明日からの護衛依頼は、今までのゴブリン退治やダンジョン探索とは、全く意味が異なるわ」
マーサの真剣な表情に、三人は顔を見合わせ、背筋を正した。
「今回の街道には、人間を襲う野盗が出る可能性があるわ。……言っておきますが、人間との戦いは、魔物との戦いとは根本から違うの」
「人間との……戦い?」
ダグが眉をひそめ、首をひねった。
「でも院長、野盗だって悪党だろ? 襲ってきたら、ゴーレムの時みたいに返り討ちにして追い払えばいいんじゃないのか?」
「——甘いわ、ダグ!!」
マーサの鋭い一喝が居間に響き渡った。おばさんハーフエルフの顔に、かつて冒険者として修羅場を潜り抜けてきた凄みが走る。
「その『追い払えばいい』という甘さこそが、あなたたちの命を奪う最大の隙になるのよ! 人間はね、傷ついても命乞いをするふりをして、あなたが油断して背を向けた瞬間に毒ナイフで刺してくるわ。降伏したふりをして、仲間の奇襲を待つこともあるの!」
三人は息を呑み、マーサの迫力に圧倒されて身体を硬直させた。
「人間との戦いにおいては、一度刃を交えたなら、相手を確実に無力化しなければダメよ。腕を斬り飛ばすか、脚の筋を切るか……あるいは、息の根を止めるか。躊躇したわずかな隙で、あなたが殺され、後ろにいるコレットや私が殺されるのよ!」
「殺す……僕たちが、人を……?」
キースが青ざめた顔で自分の手を見つめた。新しく手に入れた魔法のナイフの感触。それは今まで、からくりや魔物の隙間を突くために研いできたものだ。言葉を話し、親や家族がいるかもしれない「人間」の肉にそれを突き立てるイメージが、キースの胸に強い拒絶感を生み出していた。
コレットも右手の『精神集中の指輪』をぎゅっと握りしめ、唇を震わせた。
「あたしの……魔法で……人間を傷つけるの……?」
「怖いわよね。嫌よね。……ええ、当然よ。人を傷つけたり殺したりすることを恐れるのは、あなたたちが優しい心を持っている証拠だわ。……でもね」
マーサは三人の手の上に、自分の温かい手を重ねた。
「護衛を引き受けた以上、あなたたちの背中には、依頼人の命と、私たちの命、そしてこの孤児院のみんなの未来が乗っているの。もしも野盗が刃を向けてきたら……甘さを捨てなさい。あなたたちが躊躇すれば、死ぬのはあなたたちなのよ」
「……」
部屋に重苦しい静寂が落ちた。
ダグは握りしめた拳をジッと見つめ、喉を鳴らした。
「……分かったよ、院長。俺たち……ちゃんとやるよ。自分と、みんなを守るために……」
「ええ。……明日からの旅、気を引き締めていきましょう」
暖炉の火が静かに揺らめき、三人の幼き冒険者たちの顔を仄暗く照らしていた。
明日から始まる道のりが、単なる討伐ではなく、自分たちの魂を削るような過酷な階段であることを、彼らはまだ本当の意味では理解していなかった。




