閑話~世界のなりたち~
ぱちん、と。
暖炉の中で爆ぜたナラの薪が、橙色の小さな火の粉を煤けた煙突の闇へと吹き上げた。
パチ、パチ、と規則正しく刻まれる薪の爆ぜる音と、外の木々を濡らすしっとりとした冬の夜雨の音だけが、静もり返った居間を満たしている。
私の膝の前には、三つの小さな頭が並んでいた。
やんちゃ盛りで膝に擦り傷を作ったばかりのダグ。
利発そうな大きな瞳をしばたたかせるキース。
抱きかかえた布人形の耳をぎゅっと握りしめているコレット。
まだ幼く、丸みを帯びた小さな身体。ほんの数年前まで、夜泣きをしては私の胸の中で泣きじゃくっていたあの子たちが、今日で六歳の節目を迎えたの。
ハーフエルフとして長く生きてきた私にとって、人間の子どもの成長は、あまりにも早くて、眩しくて、どこか切ない。あっという間に大きくなって、私の手の届かない高さを目指して走り去ってしまうような、そんな感覚。
でも。だからこそ、教えてあげなければならないことがある。
「……さて。ダグ、キース、コレット。今日でみんなは六歳になったわね」
私は手元に置いた古い神官杖にそっと触れ、暖炉の火に照らされた三人の顔を順番に見つめた。
「この孤児院ではね、ひとつだけ特別な決まりがあるの。六歳になって、物心がついて、自分の足で前を向いて歩き始める夜……院長先生から、ひとつだけ『秘密のお話』を聞くことになっているのよ」
「秘密のお話……?」
ダグが身を乗り出し、目を輝かせた。
「なあに、院長先生? お宝の隠し場所? それとも恐ろしい魔物の話?」
「ふふ、違うわよ、ダグ。でも……ある意味では、世界で一番大きなお宝であり、一番不思議なお話かもしれないわね」
キースが首をかしげ、静かな声で尋ねる。
「院長先生……『世界のなりたち』のお話?」
「そうよ、キース。私たちが今、こうして靴の裏で踏みしめている大地と、青い空、そしてこの世界がどうやって始まったのか……その本当の姿のお話。さあ、静かに聴いてちょうだいね」
私は子どもたちに膝掛けをしっかりと掛け直してあげると、暖炉の揺らめく炎の向こう側へと視線を泳がせ、ゆったりとした調子で静かに語り始めたのだった。
昔々……まだ時間という言葉すら存在しなかった、遥かな遥かな太古の昔。
この場所には、何もなかったわ。
空も、海も、風も、草木も……私たちが知っているものは何ひとつとしてなかったの。
そこにあったのは、ただ一人の巨人だけ。
その巨人が、どこからやってきたのかは、誰にも分からないわ。
果てしない混沌の闇を漂ってきたのか、それとも最初からそこにいたのか……神様たちにすら分からない、世界で最初の謎よ。
巨人はあまりにも大きく、そして深い深い眠りについていたの。
どれほどの歳月が流れたかしら。やがて、うつ伏せに横たわった巨人の背中の上に、ポツリ、ポツリと、神々が生まれ落ちたわ。
最初に生まれた神様たちは、巨人の広大な背中を見渡して、こう思ったの。
『ここはあまりにも寂しく、何もない場所だ。命が憩う場所を作ろう』とね。
水の女神様が降臨し、その美しい指先から溢れ出る清らかな水で、果てしない大海原や澄んだ湖、滔々と流れる川をお作りになったわ。
大地の神様が力強い拳を振るうと、太古の土が盛り上がり、天を突く山々や平原が形作られたの。
風の神様がひとくち息を吹き込めば、空に青い風が駆け巡り、雲が生まれ、恵みの雨が降り注ぐようになった。
神様たちは大忙しだったわ。
世界を彩るために、小さく働き者の精霊たちをお生みになり、やがてその精霊たちの導きによって、空を飛ぶ鳥、海を泳ぐ魚、森を駆ける獣たち……無数の生き物たちが、巨人の背の上で芽吹いていったのよ。
私たちハーフエルフやエルフの祖先、頑丈なドワーフたち、そして人間の先祖も、この頃に神様の手によって生み出されたと言われているわ。
世界は命で溢れ、輝かしい光に包まれていた。
……けれどね。美しいものが生まれれば、それと同じくらい複雑な影も生まれてしまうものなの。
神様たちは、みんながみんな、同じ考えを持っていたわけではなかったわ。
やがて、神々の中に小さな擦れ違いと、激しい反目が芽生え始めたの。
けれどね、勘違いしてはダメよ。
それは正しい神様と悪い悪魔が戦うような、単純な喧嘩ではなかったの。
『火』の神様は、すべてを情熱的に燃やし尽くそうとする。けれど『水』の神様は、すべてを穏やかに冷まし、満たそうとするわね。
『光』の神様はすべてを明るく照らし出そうとするけれど、『闇』の神様はすべてを静かな安らぎの中に包み隠そうとする。
『争い』を司る神様は試練と強さを求め、『平和』を司る神様は平穏と安らぎを求めるわ。
『対話』を好む神様と、『沈黙』を愛する神様……。
どちらも、世界にとってなくてはならない大切な『理』なの。どちらが正しくて、どちらが間違っているなんて、誰にも決められない。
けれど……相容れない理同士がぶつかり合ったとき、その争いはあまりにも激しく、苛烈なものになってしまったの。
神様たちが本気で力を振るい、激しく戦い始めると……どうなったと思う?
想像してみてちょうだい。
私たちが背中の上に乗っている、あの『巨大な巨人』のことを。
神様たちの放つ強大な神威、天を裂くような爆風、天地を引っくり返すような衝撃……それらの余波が、眠りについていた巨人の身体を激しく揺さぶったの。
うとうとと眠っていた巨人が、背中の上の痛みに気づき、不快そうに身じろぎをしたのよ。
……それが、私たち生き物にとってどれほどの絶望だったか。
神様が争うたびに、大地は裂け、巨大な山が崩れ落ち、大海原からは街を丸ごと呑み込むような津波が押し寄せたわ。空からは火の雨が降り、地からは毒の煙が噴き出したの。
神様たちの争いの余波だけで、地上に生を受けたたぐいまれな命たちが、何万、何億と吹き飛ばされていった。
そして……神々はある日、恐ろしい事実に気づいたの。
『このまま私たちが互いの理を押し付け合い、本気で戦い続けたら、下の巨人が完全に目を覚まして起き上がってしまう』と。
想像できるかしら?
もしも、この世界そのものである巨人がむっくりと起き上がり、その身体を大きく振るったら……。
背の上の山も、海も、森も、国も、世界そのものが一瞬で粉々に砕け散り、すべてが消滅してしまう。
その瞬間、神々は背筋が凍るような戦慄とともに、自らの過ちを悟ったわ。
『中庸』……すなわち、『調和』することの大切さを、神々は破滅の淵で初めて学んだの。
自分だけの正義を押し通そうとすれば、世界そのものが滅んでしまう。
互いに譲り合い、支え合い、バランスを保つことこそが、この世界を存続させる唯一の道なのだと。
その尊い気づきの中からね、最後に新しくお生まれになったのが……私が祈りを捧げ、つかえている『調和の神様』なのよ。
調和の神様のもと、神々は静かに話し合われたわ。
『私たちはもう、この世界に直接手を貸すのをやめよう。私たちが力を振るえば振るうほど、世界は壊れてしまうのだから』
神様たちは約束を交わし、互いに互いの威光を固く封印し合われたの。
そして、世界を取り巻く高みへと退き、地上で生きる私たち生き物たちの営みを、ただ静かに見守ることに決めたのよ。
……けれどね、神様たちは私たちを見捨てたわけではなかったの。
『もしも、人間や小さな命たちが、心からの切実な祈りを捧げ、望むのなら……その祈りの分だけ、ほんの少しだけ力を貸してあげよう』
そうして残されたのが、今私たちが使っている『神聖魔法』なの。
ダグ、キース、コレット。私が使う神聖魔法の光を覚えているでしょう?
あれはね、体内にある魔力だけで出しているのではないの。私のつたない祈りを聞き届けてくれた神様が、封印の隙間から、ほんの僅かだけ力を分けてくださっているのよ。
でもね、人間の捧げる祈りの力なんて、神様から見ればほんの小さな羽毛のようなもの。
だから神様も、ほんの少しの力しか振るうことができないの。街をひとつ吹き飛ばすような絶大な奇蹟なんて、もう起きない。
でも……だからこそ、いいのよ。
世界を滅ぼさないために、神様たちは自らの力を縛り、私たちの小さな手に世界を委ねてくださったのだから。
こうして、神々の時代は終わりを告げ、私たち生き物たちの時代が始まったの。
神様たちが世界への介入をやめてから、何千年、何万年という穏やかな時が流れたわ。
地上では、人間やエルフ、ドワーフたちが知識を深め、国を作り、文明を築いていったの。
やがてね、賢い人間たちの中に、世界を取り巻く自然の仕組みに気づく者が現れたわ。
『神様に祈りを捧げなくても、この世界そのものに満ちている空気のような力、すなわち魔力を、自らの言葉と意志で動かすことができるのではないか?』とね。
これが、魔法の始まり……『古代魔法』の誕生よ。
言葉という鍵を使って、世界の魔力を紡ぎ出す技術は、瞬く間に世界中へと広がっていったわ。
人々は巨大な城を建て、空飛ぶ船を作り、病を払い、寒さを防ぐ魔法の道具を次々と生み出したの。
けれど……哀しいかな、生き物というのは、過ちを繰り返す生き物なのね。
古代魔法もね、神聖魔法や精霊魔法と同じで、誰もが平等に使えるものではなかったの。
生まれ持った素質、魔力の強さ、頭脳の明晰さ……そういった『持てる者』と『持たざる者』の差が、はっきりと出てしまった。
強い魔法を使える者たちは、いつしか自分たちを特別な存在だと錯覚するようになったわ。
神様すら必要としない自分たちこそが、この世界の支配者であり、王なのだと……増長してしまったのね。
『もっと強い力が欲しい』
『見たこともない、新しい理を手に入れたい』
欲望に呑まれた古代の魔法使いたちは、ついに踏み越えてはならない一線を踏み越えてしまったの。
万物の理を無視し、世界の外枠に強引に穴を開け『異世界との扉』を作り出してしまったのよ。
……想像できるかしら、コレット?
自分たちの世界とは全く違う、禍々しい異界から何が流れ込んできたか。
異界の深い闇から這い出してきたのは、強大で残忍な『魔神』や、醜く狂暴な『魔物たち』だったわ。
それまでこの世界にはいなかった、凶虐な怪物たち。
ゴブリンやオークのように、この世界の血と肉を喰らい、こちらの世界で子供を産み、繁殖する術を身につけてしまった不吉な生き物たち……。
自分たちの手に負えない化け物を解き放ってしまった古代の魔法使いたちは、パニックに陥り、世界は激しい混乱と戦火に包まれたの。
けれどね、古代文明の絶頂と崩壊の物語は、そこで終わりではないの。
魔法使いたちが異界の魔物と戦い、世界が混迷を極めていたその時……。
この世界そのものの理——『調和を取り戻そうとする力』が、静かに、けれど絶対の不可避さをもって動き出したわ。
具体的に何が起きたのかは、現代の私たちには誰も分からないの。
あまりの乱用によって、世界中の魔力が一瞬で枯渇したのか。
異界のゲートを開けた反動で、世界を包む大洪水や天変地異が起きたのか。
あるいは……足元に横たわるあの巨大な巨人が、背中の上の酷い痛みに耐えかねて、たった一度だけ深いため息をついたのか……。
歴史の記録は、そこでぷつりと途絶えているわ。
ただひとつ分かっているのは……ある日突然、世界を誇っていた強大な魔法文明は、跡形もなく消滅したということ。
城は崩れ、空中都市は墜落し、驕り高ぶっていた魔法使いたちは、自らが呼び寄せた魔物や天災とともに、歴史の露と消えていったのよ。
世界の理は、自らを傷つける過剰な毒を、自らの力で洗い流したのね。
それから、数百年という長い長い時が流れたわ。
滅び去った古代文明の廃墟の上に、草木が再び生い茂り、生き残った人々が寄り添い合い、泥に塗れながら作ってきたのが……。
今、私たちが生きている、この世界なのよ。
私たちが住むこのレムリアの街も、木の実やキノコを採取する森も、すべては、崩壊した過去の物語の上に成り立っているの。
魔法使いたちの過ちによって解き放たれたゴブリンや魔物たちは、今も森や洞窟に生息し、私たちを脅かしているわ。
だからこそ、剣を取り、罠を見破り、魔法を正しく使う冒険者が必要とされるのね。
けれどね、ダグ。キース。コレット。
覚えておいてちょうだい。
私たちが生きているこの大地は、今この瞬間も、静かに息を潜めている『巨人の背中』の上なのよ。
どんなに強い剣を手に入れても。
どんなに凄い魔法を覚えても。
どんなに大きな手柄を立てたとしても……。
決して、自分の力を過信して、調和を乱してはいけないわ。
自分だけの正義を押し通そうとすれば争いが起きる。
欲望のままに力を振るえば、いつか自分も世界も壊してしまう。
強くなることよりも大切なのはね……自分を抑える優しさと、仲間と分かち合う調和の心を持つことなの。
相手を思いやり、足りないところを補い合い、支え合う。
それこそが、この巨人の背の上で、私たちが平和に生きていくための、一番大きくて大切な魔法なのよ。
「……ふふ。お話は、これでおしまい」
私が話し終えると、居間には暖炉の薪がはぜる小さな音だけが残されていた。
見下ろすと、ダグは膝の上に顔を埋めたまま、ぐっすりと眠り落ちていた。剣を握る真似をしていた右手が、力なく丸まっている。
コレットも、抱きしめた布人形に顔を寄せ、小さな唇をピクピクと動かしながら、温かな夢の中へと旅立っていたわ。
ただ一人、キースだけが大きな瞳をパチパチとさせ、暖炉の炎をじっと見つめていた。
「キース……眠れなくなっちゃったかしら?」
私が優しく声をかけると、キースはゆっくりと首を横に振った。
「ううん……。院長先生」
「なあに?」
「僕たちが踏んでるこの地面……本当に、巨人の背中なのかな?」
「ふふ、どうでしょうね。目で見ようとしても、大きすぎて見えないものね。でも、本当だと思うと……足元を歩くとき、少しだけ優しく歩きたくなるでしょう?」
キースは小さく頷き、自分の小さな手のひらを見つめた。
「うん。……僕、大きくなっても、威張ったりしないよ。ダグやコレットと……みんなで助け合って、調和を守る冒険者になる」
「ええ……ええ、そうね。きっと素晴らしい冒険者になれるわ」
私は愛おしさで胸がいっぱいになり、キースの柔らかい髪を何度も何度も優しく撫でてあげた。
ダグとコレットをそっと抱き上げ、暖かいベッドへと運んで毛布を掛けてあげる。
部屋の明かりを小さく落とし、扉を閉める間際、私は暖炉の残火に向かって、小さく手を合わせた。
(神様……どうか、この子たちの歩む道が、優しさと調和に満ちたものでありますように)
ハーフエルフとしての私の長い時の流れの中で、今夜もまたひとつ、小さな種が子どもたちの心に撒かれた。
その種がいつか大きな花を咲かせ、この世界を優しく包み込む日を信じて。
私は静かに扉を閉じた。




