第3話 「安心なさい。あなたたちの命は、私が守ります」
ある日、その平穏は突然破られた。
王都の近くにあるダンジョンで、異変が起きたのである。
これまで、特に大きな問題を起こしたことのないダンジョンだった。
だが、何らかの原因で魔力が急激に濃くなり、大量の魔物が発生したという。
そして、その魔物たちが、一斉に王都へ向かって進み始めた。
報告を受けた人々は、大混乱に陥った。
貴族も平民も逃げ惑った。
騎士たちも、住民の避難誘導や王都の防衛準備に追われ、十分な防衛態勢を整えられずにいた。
王族も例外ではなかった。
緊急避難用の転移魔道具を使用し、安全な場所へ逃れたという。
夫は、王族の避難に随行する立場にあった。
混乱の中、本人の意思にかかわらず、一緒に転移させられてしまったらしい。
もっとも、私はそのことを後で知った。
そのときの私には、夫の安否を気にしている余裕などなかったのである。
「奥様!すぐにお逃げください!」
執事が、青ざめた顔で駆け込んできた。
「魔物の大群が王都に迫っています!もはや、ここも安全ではありません!」
侍女たちも慌てていた。
「お子様方をお連れして、すぐに避難を!」
私は窓の外を見た。
通りには、逃げ惑う人々がいた。
幼い子供を抱えた母親。
足の悪い老人。
荷物を抱えて走る商人。
皆、必死だった。
私は、執事に命じた。
「屋敷の門を開けなさい」
「は?」
「逃げてきた人々を、できる限り受け入れます」
執事は驚いた。
「しかし、奥様!」
「客間も、使用人の部屋も、倉庫も使いなさい。屋敷に入りきらなければ、庭にも避難させてください」
「ですが、魔物が……!」
「だからこそです」
私は、執事を見つめた。
「逃げ遅れた人々がいるでしょう。まずは、その方々を助けなさい」
執事は、何か言いかけて口を閉じた。
私は続けた。
「ここを一時的な避難場所とします。動ける方から、さらに安全な場所へ誘導してください。子供たちも、安全な場所へ。避難民には食料と水を配ってください」
「奥様は、どうなさるのですか?」
そう尋ねられた。
私は少し考えてから、答えた。
「安心なさい。あなたたちの命は、私が守ります」
その言葉を聞いた執事は、しばらく私を見つめていた。
やがて、深々と頭を下げた。
「……承知いたしました」
侍女たちも、うなずいた。
そして、皆が一斉に動き始めた。
私は、その様子を見届けると、屋敷の奥へ向かった。
向かった先は、倉庫だった。
そこには、長年使っていなかったものが保管されている。
鎧。
兜。
そして、一本の槍。
かつて、シェーラ様の背中を追いかけたときに使っていた装備である。
私は、久しぶりに鎧に手を触れた。
懐かしい。
少し、胸が高鳴った。
長く使っていなかったが、手入れだけは続けさせていた。
まだ十分に使えそうだ。
「さて……」
私は、一人でつぶやいた。
「まだ、使えるかしら」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
ポインセチアの王都は、もともと守りの堅い都市として知られていた。
その理由の一つが、地形にある。
ダンジョンから王都へ大軍が侵入しようとすれば、どうしても通らなければならない狭い道があった。
両側を険しい地形に挟まれた、天然の防衛拠点である。
大軍が迂回することは難しく、大量の魔物が押し寄せるとしても、ここを通るしかない。
私は、そこへ向かった。
やはり、思ったとおりだった。
道幅は狭い。
魔物がどれほど大量に押し寄せようと、同時に通れるのはせいぜい二匹ほどだろう。
私は馬を降りた。
そして、ゆっくりと槍を構えた。
これなら、何とかなるかもしれない。
大軍を相手にする必要はない。
この狭い道を突破しようとする魔物だけを倒せばよいのだ。
もちろん、簡単なことではない。
だが、ほかに方法はなかった。
私は、かすかながら無属性の身体強化魔法を扱うことができる。
シェーラ様のような圧倒的な力はないが、多少なりとも身体能力を高めることはできた。
それに、長年の戦場で培った経験がある。
何より、地形はこちらに味方していた。
やがて、地響きが聞こえてきた。
魔物の大群だった。
私は、深く息を吸った。
思い出す。
あの日の戦場の、シェーラ様の背中を。
「……あの背中を追うのだ」
最初の魔物が飛びかかってきた。
私は槍を突き出した。
一匹目。
続いて、二匹目。
その後ろから、さらに魔物が迫ってくる。
私は槍を振るった。
何度も何度も。
道の狭さが、私の味方だった。
押し寄せる魔物たちは、互いに邪魔をし合い、思うように前へ進めない。
倒した魔物の死骸が、さらに道を狭くした。
魔物たちが死骸に阻まれているわずかな間に、私は息を整えた。
魔物の押し寄せる勢いが少し弱まることもあった。
そのたびに身体強化魔法を弱め、少しでも体力と魔力を回復させた。
だが、休めるのはほんのわずかな時間だけだった。
私は、ただ目の前の敵を倒し続けた。
どれほど時間が経っただろう。
腕が痛い。
息が苦しい。
身体強化魔法を使っていても、疲労は確実に蓄積していく。
それでも、魔物は次々と現れた。
一体、何匹倒したのだろう。
数える余裕など、とっくになかった。
だが、私は退かなかった。
後ろには王都があり、あの屋敷がある。
子供たちがいて、逃げ遅れた人々がいる。
ここを突破されるわけにはいかないのだ。
私は、再び槍を構えた。
「通さないわ」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「リネン!!」
誰かの声が聞こえた。
「しっかりしろ!!」
何だろう。
私は、ぼんやりと顔を上げた。
そこには、夫がいた。
ひどく青ざめた顔をしている。
「あなた……?」
「よかった……!」
夫は、私を抱きしめた。
何だか、とても強い力だった。
痛い。
「怪我は!?どこか痛むところは!?」
「ええと……あちこち痛いです」
正直に答えた。
夫は、泣きそうな顔をした。
どうやら、丸一日が経っていたらしい。
私は、その間ずっと魔物を食い止めていたという。
夫は、王族の避難に巻き込まれたことを激しく怒っていた。
そして、安全な場所へ到着するや否や、すぐにシルバー王国へ救援を求めたのだという。
シルバー王国は、ただちに援軍の派遣を決定してくれた。
まず、転移魔道具を利用できる少数の精鋭たちが先行して駆けつけた。
夫も、その者たちとともに王都へ戻ってきたのだ。
そして、王都へ続く道で、私を見つけたのだった。
援軍は、私が食い止めていた魔物たちの討伐を引き継いでくれたという。
その後、態勢を立て直したポインセチア王国軍も加わり、残る魔物たちの討伐が進められた。
「……無茶をしすぎだ」
夫は、私を抱きしめたまま言った。
「あなたが死んでしまったら、私はどうすればいいのですか」
私は困った。
「申し訳ありません」
「謝ってほしいんじゃない!」
夫の声が震えていた。
私は、そっと夫の背中に手を回した。
「……あなた」
「何だい」
「子供たちは、無事でしょうか?」
夫は、しばらく何も言わなかった。
やがて、小さくうなずいた。
「ええ。皆、無事です。屋敷の者からも確認が取れています」
私は、ほっと息をついた。
よかった。
そう思ったところで、私の意識は途切れた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
後になって、いろいろなことを聞いた。
どうやら、私が魔物を食い止めている間、避難した貴族たちの間では、私が死んだものと考えられていたらしい。
そして、夫には後妻を勧める話まで出ていたという。
「伯爵夫人は、もう助からないでしょう」
「実は、我が家の娘が以前からあなたを……」
王女殿下まで言い寄ったそうだ。
「あの女は死んだに違いないわ!!やっとあなたを夫に迎えられるの!!」
……まだあきらめていなかったらしい。
そんなことを言っていたそうだ。
夫は、激怒したという。
当然だろう。
私が生きているかもしれないのに、もう次の妻の話をするなど、あまりにも気が早い。
もっとも、その後に知った夫の怒り方は、私の想像をはるかに超えていた。
あの穏やかな夫が、王族や有力貴族の前で声を荒らげたというのだから、よほど腹が立ったのだろう。
私は、少し嬉しかった。
そして、申し訳なくも思った。
私などのために、そこまで怒ってくれるなんて。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
王都の危機が去ると、国中が騒然となった。
魔物の大群を、たった一人で食い止めた伯爵夫人。
その話が、瞬く間に広まったのである。
最初は、誰も信じなかったらしい。
当然だろう。
私だって、今になって考えれば、よく生きていたものだと思う。
だが、実際に王都へ続く道には、大量の魔物の死骸が残されていた。
さらに、シルバー王国から駆けつけた軍人たちが、私の戦歴を証言した。
「彼女は、かつて大将軍シェーラ様の迅雷隊に所属していた人物です」
「五千崩しにも参加した、歴戦の勇士なのです!」
それを聞いて、人々は驚いた。
国中で、私の名前が語られるようになった。
以前は夜会で私を馬鹿にしていた人々まで、手のひらを返した。
公爵家本家の人々も同じだった。
「いやあ、以前から立派な女性だと思っておりました」
「我が一族の誇りですわ!」
私は困惑した。
以前は、あれほど嫌われていたはずなのだが。
人の気持ちとは、ずいぶん変わりやすいものらしい。
もっとも、変わらない人々もいた。
軍人たちである。
彼らは、以前と同じように私に敬意を払ってくれた。
それから、以前助けた令嬢も。
彼女は、涙を流して喜んでくれた。
そして、屋敷の使用人たちも。
「奥様がご無事で、本当によかったです」
執事は、そう言って頭を下げた。
私は、少しだけ泣いてしまった。
その後、国王陛下から、王宮へ呼び出された。
「そなたの功績は、比類なきものだ」
陛下は、そうおっしゃった。
「王都を救った功績に報い、そなた自身を公爵に叙したい」
私は驚いた。
公爵?
私が?
そんな、恐れ多い。
そもそも、このポインセチア王国では、女性が独立して爵位を授けられた前例などない。
それなのに、陛下は続けられた。
「我が国では、これまで女性に独立した爵位を授けた前例はない。だが、その前例を覆すほどの功績を、そなたは立てたのだ」
そして、重々しい声でおっしゃった。
「この件は、王族や重臣たちとも協議した。そなたの功績について、異論を唱える者などおらぬ」
私は、ますます恐縮してしまった。
「陛下。ありがたいお言葉ですが、辞退させていただきたく存じます」
「何?」
陛下は目を丸くした。
「公爵位だぞ?」
「承知しております」
私は頭を下げた。
「ですが、私は、元は男爵家の厄介者でございます。今こうして伯爵夫人でいられるのも、夫のおかげです」
私は、隣に立つ夫を見た。
「どうか、その栄誉は夫にお与えください」
すると、夫がすぐに口を開いた。
「お断りいたします!」
私は驚いた。
「あなた?」
夫は、陛下に向き直った。
「妻が命を懸けて成し遂げた功績です。夫だからといって、それを奪うほど私は落ちぶれておりません」
陛下は、私たちを交互に見た。
そして、大きく息をついた。
「……まったく、似た者夫婦だな」
結局、公爵位の話は、その場では見送られることになった。
だが、私の評判はますます高まった。
シルバー王国でも、
「さすがは迅雷隊出身だ!」
「五千崩しの英雄は健在だった!」
と、大いに話題になったという。
私は、その話を聞くたびに恐縮した。
シェーラ様の名を汚さずに済んだ。
私にとっては、それだけで十分だった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
そのころになって、実家の男爵家からも連絡が来るようになった。
最初は、祝福の手紙だった。
次に、親戚としての交流を求める手紙。
そして、ついには援助を求める手紙まで届いた。
私は困った。
どうしたものだろう。
やがて、父が直接訪ねてきた。
「久しぶりだな。我が娘よ」
父は、満面の笑みを浮かべていた。
私の記憶にある父とは、まるで別人だった。
「お前の活躍は聞いているぞ。実に誇らしい!」
私は、何も言えなかった。
「我が男爵家から、国を救う英雄が出るとはな!」
父は、機嫌よく笑った。
「今後は、我が家にもいろいろと便宜を図ってもらいたいものだ」
私は、しばらく父を見つめた。
そして、静かに尋ねた。
「お父様」
「何だ?」
「私が軍へ入ったとき、何とおっしゃったか覚えていらっしゃいますか?」
父の表情が変わった。
私は続けた。
「戦争で死ねば、多少は弔慰金が入るとおっしゃいました」
父は黙った。
「私は、その言葉を忘れたことがありません」
私自身、驚いていた。
父に向かって、こんなことを言える日が来るとは思わなかった。
「ですが、もう恨んではおりません」
それは、本心だった。
あのころの私は、家族に認められたかった。
愛されたかった。
だが、今は違う。
私には、夫がいて、子供たちがいる。
そして、私を認めてくれた軍の仲間たちがいる。
「私は今の家族を大切にしたいのです」
そう告げると、父は何も言えなくなった。
結局、父は何の約束も得られず帰っていった。
その後、男爵家が私の戦功を自分たちの手柄のように語っていたことが、シルバー王国の軍人たちの耳にも入ったらしい。
かつての戦友たちは、たいそう不愉快に思ったそうだ。
戦友たちは、私の戦功と男爵家は何の関係もないと、はっきり否定したという。
それ以来、男爵家が英雄の実家として誇らしげに振る舞うことは難しくなったと聞いた。
だが、私はもう、その家のことを気にする必要はなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
それからも、幸せな日々が続いた。
子供たちは成長した。
三人の息子は、それぞれ立派な青年になった。
娘も、美しい女性に育った。
ありがたいことに、私には似なかった。
夫に似てくれて、本当によかった。
子供たちは、皆優しかった。
使用人たちも、長年私を支えてくれた。
そして、夫は相変わらず私を愛してくれた。
「あなたは、昔から少しも変わりませんね」
ある日、夫が言った。
「そうでしょうか?」
「ええ。今でも、私には誰よりも美しく見えます」
私は笑ってしまった。
「やはり、あなたの目はおかしいのですね」
夫も笑った。
だが、その穏やかな日々は、いつまでも続かなかった。
夫が病に倒れたのである。
最初は、すぐによくなると思っていた。
だが、病状は次第に悪化した。
腕のよい医師を呼んだ。
できる限りの治療も受けさせた。
それでも、夫は回復しなかった。
ある夜、夫は、私を呼んだ。
「少し、お話をしてもいいですか」
私はうなずいた。
夫は、ゆっくりと言った。
「あなたを初めて見たときから、私は惹かれていたんですよ」
私は驚いた。
「……え?」
「戦場で、初めてあなたを見たときからです」
夫は、かすかに微笑んだ。
「誰よりも懸命に戦っていた。仲間を守るために、ためらわず敵へ向かっていった」
私は、何も言えなかった。
「五千崩しで助けてもらったから、結婚を申し込んだのだと思っていましたか?」
私は、小さくうなずいた。
夫は、静かに笑った。
「違いますよ。あのときは、もうあなたを好きになっていました」
涙がこぼれた。
「どうして……」
私は、声を震わせた。
「どうして、私なんかを……」
夫は、そっと私の頬に触れた。
「私なんか、ではありません」
そして、言った。
「あなたでなければ、駄目だったんです」
私は、泣いた。
子供のように泣いた。
夫は、そんな私を最後まで優しく見つめていた。
そして、静かに息を引き取った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
夫が亡くなってから、私は変わってしまった。
何をするにも、気力が湧かない。
屋敷の仕事は、息子たちが引き継いでくれた。
三人の息子は、立派に育った。
娘も幸せに暮らしていた。
私は、もう何も心配する必要がなかった。
ただ、夫がいない。
それだけで、世界が色あせてしまったようだった。
私は、よく庭で日なたぼっこをするようになった。
暖かな日差しの中で、椅子に座る。
ぼんやりと空を眺める。
昔のように槍を振るうこともない。
もう五十を過ぎて、ずいぶん年を取った。
かつての女傑と呼ばれた面影など、どこにもないだろう。
私自身、そんなものはもう残っていないと思っていた。
「母上は、今日も庭に?」
息子の声が聞こえる。
「ええ。日なたぼっこをしておいでです」
侍女が答えていた。
息子たちは、私を大切にしてくれた。
その妻たちも、こんな私を気遣ってくれる。
ありがたいことだ。
私は、目を閉じた。
このまま、静かに死んでいくのかもしれない。
それも悪くない。
夫には、もう会えないのだろうか。
そんなことを考える日々だった。
ところが、人生とは、最後まで何が起こるか分からないものである。




