第1話 ケーキ屋を夢見る彼女
待ち合わせ場所に着いた頃には、空はすっかり夕暮れに染まっていた。
駅前の大通りには仕事帰りの人間が増え始め、信号が変わるたびに、スーツ姿の会社員や学生たちが一斉に歩き出していく。店先から漂ってくる料理の匂いに混じって、どこかのカフェから甘い焼き菓子の香りまで流れてきた。
俺は腕時計を確認する。
約束の時間まで、あと五分。
少し早く来すぎたらしい。
「……まあ、いつものことか。」
壁にもたれながら、ポケットから葉巻を取り出そうとする。
――いや、やっぱやめた。
結愛と会う日は、なぜか吸う気になれない。
自分でも理由はよく分からなかった。
「奏君!」
聞き慣れた声が、人混みの向こうから飛んできた。
顔を上げると、梶原結愛……恥ずかしいが俺の彼女がこちらへ駆けてくる。
肩まで伸びた白い髪が走るたびに揺れ、片手には小さな紙袋を抱えていた。
「ごめん! 待った?」
「いや。今来たところだ。」
「絶対嘘!奏君、いつも早いもん!!」
「はあ……相変わらず細かいな、お前は。」
結愛は俺の前で足を止めると、少し息を整えてから笑った。
「だって、もう何回も会ってるから分かるよ。奏君って、待ち合わせの時間より十何分か早く来るでしょ?」
「そんなに暇そうに見えるか?」
「そういう意味じゃないってば。」
結愛は笑いながら、俺の顔を覗き込んだ。
「今日は疲れてる?」
「別に。」
「その『別に』は疲れてる時のやつだよ」
「……お前、人の顔見すぎだろ」
「だって奏君、分かりやすいんだもん」
「俺が?」
「うん!」
即答だった。
俺が眉をひそめると、結愛は楽しそうに笑う。
「ほら、今も。」
「何がだよ。」
「そうやってちょっと嫌そうな顔するところ!」
「……帰るぞ。」
「えっ、待ってよ!」
結愛が慌てて俺の袖を掴んだ。
「冗談だ。」
「もう!」
そのまま俺の隣に並ぶ。
「今日はどこ行く?」
「お前が飯食いたいって言ったんだろ。好きなところでいい。」
「じゃあ、あそこ!」
結愛が指差したのは、駅から少し離れた場所にある小さな洋菓子店だった。
白い外壁に木製の看板。
店の中には暖色の照明が灯っていて、ガラス越しに色とりどりのケーキが並んでいる。
「それ……飯じゃねえだろ」
「ご飯も食べるよ。そのあと!」
「最初からそっちが目的だったな」
「バレた?」
「バレるわ。」
結愛は悪びれもせず笑って、店の扉を開けた。
ベルの音が小さく鳴る。
店内に入ると、甘い香りが一気に鼻を抜けた。
ショーケースには苺のショートケーキ、モンブラン、チョコレートケーキ、色鮮やかなフルーツタルトが並んでいる。
結愛はショーケースの前で立ち止まり、目を輝かせた。
「わぁ……!」
「子供か、お前。」
「だって見てよ。今日、苺の飾り方がいつもと違う!」
「分かるのか?」
「分かるよ。ほら、ここのクリーム!」
結愛はガラス越しにケーキを指差した。
小柄な身体なのも相まって、本当に子供みたいだ。
「絞り方が少し変わってるでしょ? たぶん今日から変えたんだと思う。」
「……よく見てんな。味は変わらないだろうに。」
「ケーキ作る人なら、このくらい普通だよ!」
「そういうもんなのか。」
「そういうもんです。」
少し上からの口調で、得意げに胸を張る。
俺はショーケースを眺めたあと、店員を呼んだ。
「これを二つ頼む。」
「え、待って。私まだ決めてないよ。」
「さっきからずっと悩んでるだろ。」
「うーん……」
結愛は真剣な顔でショーケースを見る。
「……やっぱり最近人気のモンブランかなぁ。でもフルーツタルトも気になるし、チョコも……」
「全部頼めばいいだろ。」
「そんなに食べられないよ。」
「じゃあ残りは俺が食う。」
「奏君、甘いの苦手じゃなかった?」
「おいおい、誰がそんなこと言った。」
「前に言ってたじゃん。」
「気のせいだ。」
「絶対嘘!」
結愛は笑いながら、結局モンブランを選んだ。
俺はコーヒーとチョコレートケーキを注文する。
席に着いてからも、結愛はケーキをじっと眺めていた。
「どうした……食わないのか?俺が食っちまうぞ。」
「ちょっと待って。勝手に食べようとしないで。」
「何を待つんだよ。」
「勉強。」
結愛は鞄から小さなノートを取り出した。
表紙には、いくつもの店の名前が書かれている。
「またそれか。もう見慣れたけど。」
「うん。今日食べたケーキのこと、ちゃんと書いておきたいの」
「そんなの家で書けばいいだろ。」
「その場で食べた時じゃないと分からないこともあるんだよ。」
そう言いながら、結愛はノートを開いた。
「クリームの甘さ、スポンジの柔らかさ、香り、それから……」
小さな字で、丁寧に書き込んでいく。
俺はコーヒーを一口飲みながら、その様子を眺めた。
「そんなにケーキが好きなら、自分で作ればいいだろ。」
「作ってるよ?」
「……そうなのか?」
「うん。大学から帰ったあととか、休みの日とか。」
「知らなかったな。」
「言ってなかったもん。」
「なんでだよ。」
「だって、奏君って甘いもの興味なさそうだったし。」
「興味がないだけで、食えないわけじゃねえよ。」
「じゃあ今度、私が作ったの食べてよ。」
「……お前が作るのか?」
「うん!」
結愛は嬉しそうに頷いた。
「私、いつか自分のお店を出したいんだ。」
その言葉だけは、妙に迷いがなかった。
「小さなお店でいいの。ケーキとコーヒーがあって、静かで、誰でもゆっくりできるようなところ。」
結愛は窓の外を眺めながら続ける。
「仕事で疲れた人とか、学校帰りの子とか、たまたま入ってきた人がさ。ケーキを食べて、ちょっとだけ元気になって帰れるようなお店。」
「……随分具体的だな。」
「ずっと考えてるからね。」
「店の名前は決めてんのか?」
「まだ。」
「看板くらい先に決めとけよ」
「えー、そこ?」
結愛が吹き出した。
「でも、名前かぁ……」
少し考えてから、こちらを見る。
「奏君、何か考えてよ」
「俺が?」
「うん。二人で考えたら楽しそうじゃない?」
「俺はそういうの苦手だ。」
「知ってる。」
「なら聞くなよ。」
「でも、奏君が考えた名前なら大事にするよ。」
そう言って笑う。
俺は返事をせず、目の前のケーキに視線を落とした。
「はあ……勝手にしろ。」
「ふふっ。じゃあ、考えておいてね!」
「お前、本当に人の話聞かねえな。そんなんで友達とかと上手くやれてんのか。」
「聞いてるよ!あと友達二人だけの奏君と違います!」
「……。」
結愛は笑いながらモンブランを一口食べた。
「ん……おいしいぃいいいいい!」
「そんなにか?」
「うん。奏君も食べる?」
「いらん。」
「一口だけでも。はい、あーん。」
「いらねえって。人前で恥ずかしいからやめろ。」
思わず俺は少しだけ顔を赤らめた。
結愛は典型的な不思議ちゃんだから、こいつの考えていることだけは全く読めない。
「じゃあ、私が食べちゃうね。」
「最初からそうしろ。」
結愛は楽しそうに笑って、もう一口食べる。
その顔を見ていると、さっきまで頭の中に残っていた仕事のことが、いつの間にかどうでもよくなっていた。
俺はコーヒーを飲みながら、窓の外を見る。
夕方だった空は、いつの間にか暗くなっている。
店のガラスに街の明かりが映り、行き交う人間の影がゆっくり流れていく。
「奏君。」
「ん?」
「今日、楽しかった?」
「……まあな。」
「よかった。」
結愛はそれだけ言って、またケーキを食べ始めた。
大げさなことは何もない。
ただ一緒に飯を食って、くだらない話をしているだけだ。
それでも、俺にとっては悪くない時間だった。
「ねえ、奏君。」
「今度はなんだ。」
「次は私が作ったケーキ、食べてね。」
「……考えとく。」
「絶対食べるって言わないんだ。」
「まずは食えるもん作るところからだな。」
「ひどい!薄情者!」
結愛の声が店内に響く。
店員がこちらを見て、少し笑った。
俺は目を逸らしてコーヒーを飲む。
「……すまん。」
結愛もようやく周りの空気を感じ取って、その後はおとなしくスイーツをほおばっていた。
……まあ。
こういう時間も、悪くない。
そう思いながら、俺は結愛が食べ終わるまで、向かいの席に座っていた。




