36. 青いドレスふたたび
小田真一が行方不明だった恋人を見かけたのは、深夜、品川のプリンホテルでじゅうたんの掃除をしていたときだった。
熱海で彼女と別れてから一ヶ月が経とうとしていた。それ以来、会えない状態が続いている。なぜか入院先を教えてくれないのだ。
もっとも、メールのやり取りは出来てるので以前よりは気が楽だった。
三度目の空白期間をむかえた真一は、今やそのペースにすっかり適応してしまった。すなわち、あわてず騒がず日常生活を送りながら彼女が退院してくるのを気長に待つ、という精神状態である。
二度あることは三度ある。待っていれば必ず向こうから現れる。真一の中には確信めいたものがあった。
だからお盆明けから清掃バイトに復帰したし、大学の講義にも後期からは欠かさず出席している。
前期試験を全欠席してしまったのは痛かったが、不幸中の幸いというべきか、追試やレポート振替を許してくれる教授がけっこういた。
語学クラスでは「全欠席男」というありがたくない評判が広がっていたが、男子のあいだでは武勇伝めいた響きでそのことが伝わっていて、なんとなく周りから一目おかれているような雰囲気を感じる。
その証拠に、レポートの模範解答をこっそり回してくれるやつが数人いた。
ともあれ、真一の予感通り、こうして瑠香とめぐり会うことができたのだ。奇しくも初めて彼女の素顔を見たときと同じようなシチュエーションである。
「悪い、ちょっとションベンしてくる」
一緒に目起こしをしていた仲間に声をかけると、デッキブラシを放り投げてロビーを走った。
楕円形のビルに合わせるかのように湾曲したロビーをぐるりと回って、広々としたエレベーターホールに出た。
するとやはり瑠香のなつかしい姿がそこにあった。
サテンの青いドレスを身にまとい、ストレートのロングヘアーをなびかせている彼女は、まるであの日からタイムスリップしてきたかのようだ。
とはいえ、あの日と違う点がふたつあった。
まず美しい素顔を隠すようにマスクをしていること。もうひとつは真一に気付いたとたん目を輝かせ、すごい勢いで抱きついてきたことである。
「ああ、真一……真一、会いたかったよお、あい……あ痛たたた」
抱きついたと思ったらパッとほどいて胸を押さえだした。
「どうしたんだよ、心臓でも痛いのか?」
「な、なんでもないわ。じっとしてれば治るから」
苦しそうに眉をしかめながら、じっと肩で息をしている。
「やっぱり調子が悪いんじゃないか? さっきも足を引きずってたし」
真一は見逃してなかった。エレベーターホールに向かう後姿をちらっと見ただけで、様子がおかしいことに気付いていたのだ。
「ちょっと見せてみろ」
顔をこちらに向かせて、ひたいに手を当てた。
「大丈夫かよ! すごい熱だぞ」
「だ、大丈夫だから……」
そのときエレベーターの扉が開いた。瑠香は強引に手をふりほどいて中に乗りこむ。
「おい」
当然、放ってはおけない。真一も続けて中に入った。
「来ては駄目……お願い……」
あわてて押し返そうとするが力が入らないようだ。彼女は押されるままにズルズルと後退していった。足元がもつれて危なっかしい。
そうこうしてるうちにエレベーターは上昇をはじめた。
「何やってんだよ、無理しちゃだめだろ」
「この先は危険なの……本当に……ああっ」
もみ合ううちに案の定、足をすべらせて尻餅をついてしまった。
「危険なのはおまえの状態だよ。ほら、手を出して」
真一は助け起こそうと伸ばしかけた手をおもわず引っこめた。スカートの下に隠されていた太ももがあらわになっていたからだ。
太ももには包帯が巻かれていて、表面にはべっとりと血がにじんでいた。あきらかに高熱はこの傷のせいだ。
「どうしたんだこれ! こんな足で歩いてたのか」
「どうしても…やらなきゃいけない……ことがあるから……」
「やらなきゃいけないことって何だよ。こんなに無理をしてまでも」
「……どうしてタイミングよくあんな所にいたの? どうしてあたしを見つけちゃったの? 真一に知られないようにこっそり片付けるつもりだったのに……」
瑠香は顔をうつむかせて独り言のようにぶつぶつ言っている。どうも精神状態が普通ではないらしい。
あの俊夫アンドリュースとかいう得体の知れない男は死んだはずだ。やらなきゃいけない事なんてあるはずがない。
じっさい爆弾騒ぎはあれ以来ピタリと止まっている。
「とにかく休んだほうがいい。何より大切なのは自分の命だ。そうだろ?」
「いのち? そうね、自分のはともかく大切なのは命だわ……だからあたしはやらなきゃいけないんじゃない!」
急に叫んだと思うと、真一の上着のえりをつかんだ。そのまま彼の体を這いのぼるようにして立ち上がる。
と同時にエレベーターのドアが開いた。
瑠香はえりをつかんだまま自分の体をふりまわした。その反動で彼との位置が入れ代わると、ぱっと手をはなす。
すると遠心力によってそのまま外に飛び出していった。自分をハンマー投げのハンマーにしたのである。
エレベーター前の壁に手をつくと、足を引きずりながら廊下を歩きだした。ビルの形が楕円形なので、廊下もそれに合わせて緩やかにカーブしている。
呆然としている真一の目の前でドアがゆっくりと閉まってゆく。ハッとわれに返り、あわてて開ボタンを押した。
廊下に出た彼は一瞬、立ちすくんだ。壁に手をつき、痛みに耐えながらのろのろと歩く瑠香の鬼気迫る姿に圧倒されたのだ。
(どうしてそこまでして……)
真一の疑問が、もし声に出されて問いかけられても、瑠香には答えられなかったろう。
このときの彼女の心理状態は悲痛なものであった。恋人の命を救うつもりが、逆に自分で恋人を死地におびき寄せているのだから。
しかし駄目だと思っても、どうすることもできなかった。体が勝手に、あらかじめ叩き込んでいたプラン通りに動いてしまうのだ。
やはり普通の精神状態ではないようだった。
「る、瑠香……頼むから行かないでくれ!」
真一の叫びにふり返った彼女は、ぱっとマスクを取った。その表情は笑っていた。
いや、たしかに笑っているはずなのに笑顔に見えなかった。必死の思いで苦痛に耐え、いまにも泣き出しそうな、そんな笑顔だった。
次の瞬間、瑠香は目の前のドアを猛烈な勢いでたたき始めた。
「な、何やってんだよ」
真一は、はじけるように飛び出して背後から彼女を押さえ込んだ。すると今度はドアに向かって大声で呼びかけ始めたのだ。
「真壁さん、大変です! 真壁さん、大変なことがおこったんです!」
瑠香の言葉に耳を疑った。その苗字で連想する名前はひとつしかない。その人物は真一にとって非常に因縁ぶかいものだった。
そしてもちろん瑠香にとっても同様だ。なにしろ彼の弟子をまとめて爆殺する片棒を担いだのだから。
(ちょっと待て、瑠香がむりやり俊夫に従わされていたと、どうしておれは思い込んでるんだ?)
真一の中で恐ろしい疑惑が生じた。
瑠香と俊夫はつねにこの評論家の周辺で動いていた。瑠香の口から真壁という名が出た以上、彼女が俊夫の遺志を継いでいるのは確実だと思えた。
「真壁さん、駄目だ! 開けちゃいけない!」
思わず口走っていた。
だが、その言葉を言い終わらないうちにドアは開かれてしまった。
「騒々しいな、まったく」
部屋から顔を出したのは予想通り、良く知っている甘い二枚目顔だった。
「あっ!」
真壁京四郎は二人の姿を見て声を上げた。
その表情は数秒間のうちに面白いほどコロコロ変わった。
真一の顔を見たときの驚愕、それが不審に変わり思案の顔になると、コンマ1秒後には好色な欲望を示した。だが瑠香の顔に視線を移したとき、その瞳に恐怖の色が浮かび、すぐに絶望へと変化した。
「本多瑠香! きさま、何をやってる!」
そして真壁は怒りをふりしぼるように叫んだ。
「サポート役のあなたに作戦中止を知らせに来たのよ」
苦しさをものともせず、彼女の口は滑らかに動いた。
「作戦中止? いや、それより……こ、こんなところで、マスクを外していいのか……小田真一もいると……いうのに」
「へえ、わたしの唇の特性を知っている口ぶりね……生かしてはおけないわ」
瑠香の視線が下を向いた。その先には、じょじょに盛り上がる真壁の下腹部があった。
「くそっ、このぼくが……女なんかに……」
真壁がふらふらと近付いてきて、瑠香の唇に顔をよせはじめた。
「やめてよ」
瑠香はそれをかわし、真一の後ろにまわる。唇の魅了効果は同性愛者の評論家にも強力に作用していた。
「わたし彼氏持ちなんで、あなたとキスはできないわ」
「この裏切り者が……」
力をふりしぼるように真壁の手が動き、ポケットから拳銃を取りだした。
瑠香は素早く体勢を入れ替えて真一の前に出た。
「冥土のみやげに教えてあげる。真一はね、唇を見ても発情しない特異体質なの」
ドレスのすそから水鉄砲を取り出すと、評論家に向けて構える。
「組織の人間なら知ってるはずよ。わたしを殺したら、あなたのほうが大変なことになるってこと。つまり死ぬより悲惨なことにね」
彼女の言葉を、この時点の真壁が理解できていたのかはわからない。
ただ彼は、ニヤリと笑うと腕を横にのばし、部屋の壁に向けて銃を撃ったのだ。
「しまった!」
瑠香の反応はすばやかった。真一を押し出すようにしてドアにもどると、一目散に部屋から飛び出した。
「来た道を戻るのよ! エレベーターホールに!」
そう叫んで真一の胸をドンと押す。だが彼は逆に瑠香をギュッと抱きしめた。
「さ、さっきのは何だよ。真壁が撃ったのは本物の拳銃なのか?」
「いいから逃げて。隣の部屋には本物の殺し屋が……」
隣の部屋に銃を撃ちこむことで、そこで待機する者に計画の破綻を知らせのだ。
そのとき真壁の部屋から二発目の銃声が響いた。おそらく死ぬよりつらい目にあう前に自分で頭をぶちぬいたのだろう。
銃声がしたのとほぼ同時に隣の部屋が開いた。
中から出てきた男は、精悍な感じの苦みばしった中年男だった。
「安田さん、あなた、サポーターからエージェントに昇格したの」
瑠香の顔からスッと表情が消えた。
「なにしろ人手不足でね、俊夫は死んじまったし、おまえは使い物にならないしで、組織はてんてこまいだったんだぜ。仕事がたてこんでるこの時期に、のんびり新人を育ててるヒマもないしな。そこで多少は心得のある俺を急遽抜擢したってわけなんだ」
安田と呼ばれた男はなれなれしい口調でこちらに近付いてきた。瑠香は男との距離をたもつようにジリジリと後退していく。
それに押されて真一も廊下を後ずさりしていった。さっきから真一の理解を超える事態が次々と展開している。
組織だの殺し屋だのエージェントだの、まるでスパイ映画のようなせりふが高密度でくりだされていて、まったくついていけない。
ただ、一連の事件は俊夫個人のたくらみではなく、組織的な何かが関わっているらしい、という事はおぼろげながら分かってきた。
「じゃあ、わたしたちの代わりに“研究会”の残党を始末していたのは……」
「もちろん俺だよ」
「高瀬和也のときはあんなに殺しを嫌がってたのに」
「それはひとり目をやる前のはなしだろ? 最初の一歩を踏み出してしまったら、あとは平気になってしまうんだな。あのとき強制的にやらされたおかげで、いまの俺がある。それに、人手不足になるとギャラは上がる。これ経済の法則というヤツだな」
安田は得々としてしゃべっていた。見知らぬ仲ではないとはいえ、殺し屋にしては情報をペラペラしゃべりすぎるきらいがあった。
「あなた、いつからそんなにおしゃべりになったの?」
「ああ?」
「そんなに饒舌な人じゃなかったはずよ。やっぱり安田さんに殺しは向かないようね。きっと無理しているせいで精神のバランスが崩れかけてるのよ」
「うるせえ!」
安田の表情が急変した。余裕たっぷりの笑みが消え、毒々しい憎悪の顔に変化した。
「何度も言わせんな! 小娘が俺のことを馬鹿にすんじゃねえ!」
懐に手を入れると、もたつきながら銃を引き抜いた。まっすく瑠香にむけて構えるが、銃口が小刻みに揺れている。
「なぜ俺が抜擢されたかにはもうひとつ理由があるんだぜ。いずれ組織はおまえを始末するつもりだったからなんだ」
「なるほど、安田さんは唇の誘引力に免疫があるから……」
「ご名答! その誘引力さえなければおまえはただの小娘だ。殺すのはたやすいさ。予定にはなかったが、いずれやらなきゃいけない事なんだ。これもいいチャンスだ。いまのうちにおまえを始末させてもらうぜ」
安田は歯をくいしばり、目を充血させながら瑠香をにらみつけた。グロテスクなまでにゆがんだ表情だ。
「……ターゲットの……やれるさ……息を止めろ……俺ならやれる……ターゲットの……殺すのはたやすい……息を止めろ……」
口の中でブツブツつぶやいている。
「そしてわたしを殺ったあとは、あなたが始末される番になるわけね」
「えっ?」
また急に表情を変え、キョトンとした顔で瑠香をみる。
「その考えには思い至らなかったようね。いい? このゴルゴーン作戦は本部の許可なく、日本支部が独断でやってることなの。作戦が終われば、下っ端工作員は証拠隠滅の対象となる……」
「ぶはははは! 笑わせるな! 騙そうったってそうはいかんぞ! 言うに事欠いてなんだその三文小説みたいな筋書きは! ぶはははは!」
安田は大口を開けて笑い出した。笑い袋のような声である。
精神のメーターがあっちこっちに振り切れている。ここにいたって彼は完全に集中力を失っていた。
彼の饒舌さに目をつけ、話を引っぱった甲斐があった。瑠香はこのチャンスを逃さず、水鉄砲の黒い液体を大口にむけて吹き付けた。
「ブハッ! 何だこれは! み……味噌汁?」
ふたたび安田はキョトンとした顔で瑠香をみる。
「そうよ、わたしの唇から分泌した毒素をたっぷり含んだ特性味噌汁……」
「てめえ……クソッ!」
安田が苦しそうに胸をかきむしり始めた。
「あああああああああああ!」
野獣のような雄たけびを上げて、彼はばたりと倒れた。
「こ、この人どうしたんだ? まさか死んだんじゃ……」
真一がようやく口を開いた。
「たぶん死んでないわ。毒素は抽出して24時間経つと効力が半減するから」
瑠香の説明はまたもやよく分からない。ただ言えることは、いつまでもこんな所でぐずぐずしてる場合じゃないということだ。




