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誘蛾灯の女~そのくちびるを見た者はことごとく魅了され、そして死ぬ  作者: メガネを取るとイケメン
第四章

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37. 真一の存在証明

 エレベーターが一階に止まった。真一は恋人を抱きかかえるようにしてロビーの前を突き切った。

 清掃会社の制服を着た彼を見て、フロント係が声をかけてきたが無視した。

 そのまま二人はホテルのドアを抜けて駐車場に出た。とりあえず出口に向かってまっすぐ走る。


「なあ、ひとつ聞いても良いかな」

「どうしたの?」

「唇の毒素ってどういう意味なんだ?」

「…………」

「さっきの会話で、やたらに唇の話題が出てたようだけど、瑠香のマスクと関係あるのか? あと瑠香がキスしてくれないのもやっぱりその話に関係あるの?」

「…………」


 彼女は苦しそうな表情で、黙ってうつむいている。なにか重大な秘密が瑠香の唇にはあるらしい。

 なおも続けようとする真一の質問は、突発的に中断された。

 いきなり後方の頭上からガラスの砕けるような音が響いたのだ。

 ふりかえると、ちょうど真一たちがいたフロアーのガラスが砕かれ、そこから消防のホースがするすると垂れ下がるのが見えた。

 おそらく息を吹き返した安田が、備え付けのホースを使って一気にここまで降りようとしているのだろう。

 かたやこっちは、ほとんど歩けない瑠香を支えながら逃げている状態だ。追いつかれるのも時間の問題といえる。


「わたしはいいから、真一は先に逃げて!」

 押しのけようとする瑠香を必死で離すまいと、真一はぎゅっと抱きしめた。どうしてこんなことになっているのか、さっぱり分からない。

 ただ、目の前に血だらけの恋人がいて、それを追いかける男がいる。それだけは分かる。ならば簡単なことだ。

 彼女を男の手から守り抜けば良いだけの話じゃないか。


「うおおおおおおおお!」

 安田が地上に下りたらしい。またもや野獣の雄たけびを上げてこちらに突進してきた。

 同時に拳銃を撃ちまくっている。だがやみくもに撃っているだけで、こちらにはちっとも当たらない。

 しかし万一の用心のため、中央にある遮蔽物のかげに身をよせた。

 駐車場の下は水族館になっている。その駐車場の真ん中に、おわんを伏せたようなかたちで配置されているこの建造物は、どうやらイルカプールの天井部分に当たるらしい。全体が強化ガラスで覆われている。


「どこだああああ! るかあああああ! でてこおおおおい!」

 時々思い出したように銃を撃ちながら、安田は駐車場をぐるぐる回る。

 その流れ弾が遮蔽物の窓にあたった。ガラスは粉々に砕け、気圧差により吹き出した空気がゴーッと音を立てる。

 間の悪いことに、ちょうど瑠香の足元がふらついたタイミングと重なってしまった。窓に手を付こうとした瞬間に砕けてしまったのだ。

 彼女は悲鳴を上げる間もなく建造物の中に吸い込まれていった。


「瑠香!」

 真一は割れた窓に顔を突っ込んでのぞきこんだ。

 常夜灯のおかげで内部の様子がはっきり見えた。五メートルほど下に円形のプールがあり、その中央で瑠香がもがいている。


(やはり、この下はイルカプールになっている。おれもこの中に飛び込めば……いや駄目だ。それでは結局袋のねずみだ。あの安田とかいうおっさんを倒さなければ逃げ切ることはできない)

 真一の中である覚悟が決まった。


「泳ぎは得意じゃないって言ってたけど、すこしの辛抱だから!」

 真一は大声で恋人に呼び掛けた。

 彼女はもがきながらもこちらを見上げた。


「とにかく体の力を抜けば人間は浮くようにできてる! 適当に手をバタバタさせればへりまでたどり着けるから!」

 その呼びかけを聞いて、瑠香は悲しそうに眉を寄せた。


「必ず後で迎えに行く!」

 そう言うと、真一は建造物から離れてふたたび駐車場に飛び出した。


(頼む! あいつを倒すまで、何とか持ちこたえてくれ!)

 祈りにも似た心の声だった。

 しかしイルカプールの水は当然のことながら海水である。残念ながら、瑠香にとって海水が致命傷であることを、彼は知らなかった。


「おまえ馬鹿か? あんな大声出したら見つかるに決まってるだろ」

 目の前に安田が立っていた。肩を上下させて息を切らしている。

 さきほどの毒素汁の影響である。ここまで走ってくるだけで、ほとんどの体力を消耗していた。


「かっこいいねえ、ナイト気取りの二枚目さんよお。自分がおとりになってお姫様を逃がそうって魂胆か? 俺の狙いがお姫様だと思ってたのか? ところが違うんだなあ。おれたちの話をよく聞いてなかっただろ。あの小娘に出会ったのは予定外のことだったんだ。今夜の本当のターゲットは……」

 安田は狂的な目で真一を見つめた。


「畜生、まだ毒が抜けきらねえや。名前が出てこねえ……えーと、小田……そう、小田真一くん、きみだったんだよ!」


 またもや獲物を前にして無駄なしゃべりを続ける安田だった。

 その弱点は真一にも分かっていた。彼は安田の集中力が途切れる瞬間をねらいすまし、


「うおおおおおおおおお!」

 突進していった。狙いはただひとつ。右手に持った拳銃である。


「うわっ、なんだこいつ! 離せこのやろう!」

 不意をつかれた安田は完全に右手を押さえ込まれてしまった。あいている左手で必死に殴りつけるが、よろいのような筋肉に覆われていてビクともしない。


「クソッ! クソッ! この馬鹿力が!」

 あっというまに拳銃をもぎ取られてしまった。攻守逆転である。安田の体力ゲージはもうスッカラカンだった。小指を動かす力も残っていない。

 もぎ取ったほうの真一はゆらりと立ち上がると、無感動な目でじっと安田を見下ろした。


「なんだよ……なに見てんだおまえ」

 異様な雰囲気を感じて安田はたじろいだ。かたや体力の残っていない中年男、かたやまだ余力の残っていそうな、しかも拳銃を持った若者である。


「おちつけ、な? おちついて話し合えばわかる」

 われながら効果の薄そうな言葉だと思いながらも、言わずにはおれなかった。


「なあ、おっさん、あんたの狙いはおれと瑠香、この二人なんだろう?」

「いや、待て、違うんだ。これには事情があって」

「おっさんは生きてる限り、おれたちをねらい続けるんだろ?」

「違う違う、ぜんぜん違うよ。きみは何か誤解しているようだ」

「おれが恋人を守り抜くには、あんたを殺す以外に方法はないんだろ?」

 真一の目に狂気がやどりはじめた。


「じゃあこうするしかないよ」

 言い終わらぬうちに銃口が火を吹いた。

 真一は、一瞬で無機物に変化してしまった安田から、興味を失ったようにくるりと背を向けた。そのままとぼとぼと割れたガラス窓に向かった。


「瑠香、おまたせ」

 窓に首を突っ込んで下を見下ろした真一は、予想外の光景を目にして戸惑った。

 まるいプールの真ん中で、恋人がぷかぷか浮かんでいるのだ。ロングへアのかつらが取れ、鳥の巣のようなもじゃもじゃ頭が海藻のようにゆれている。

 そのうちだんだん事態が飲み込めてきた。どうやら自分はひどい間違いをおかしてしまったらしい。


(そうだった。おれはそういう人間だった)

 大学に入っていらい、やることなすこと上手くいかずに落ち込んでいた。

 瑠香と出会ってすこしは変わると思っていたが、全然そうじゃなかった。

 八百屋の健太を救おうとしたけど、けっきょく何もできなかった。

 瑠香のためと思って犯罪の片棒を担ごうとしたこともあった。

 ところがどうだ。最終的にこんな結末を迎えちまった。

 絶望のふちに沈む真一の心の中で、やがて小さな声が響いてくるのを感じた。


(ん? いま何か聞こえなかったか?)

 真一は目を閉じて心の声に耳を澄ませた。声はやがて明瞭に聞こえるようになってきた。その声は「まだ間に合う」といっているように思えた。


(そうだ、思い出した。ライフセーバーの講義で習ったじゃないか。心肺蘇生術の成功率は45分を境に激減する。逆に言えば、45分以内に蘇生を試みれば、助かる確率は高いって事じゃないか)

 真一は講習で習った心肺蘇生の手順を必死で思い出した。


(大丈夫だ、まだ覚えてる。いけるぞ! 必ず助けてやるからな、瑠香……)

 ふと、さっき話題にした「唇の毒素」という言葉がふたたび頭をよぎった。これはたしか瑠香が安田に対して言った言葉だ。「わたしの唇か抽出した毒素」と。


(関係ないさ。瑠香を助けることができれば、おれの人生が無駄じゃないと証明できるんだ。そのためなら、どうなろうとかまうもんか)

 真一は深呼吸すると、イルカプールに向かって飛び込んでいった。

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