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誘蛾灯の女~そのくちびるを見た者はことごとく魅了され、そして死ぬ  作者: メガネを取るとイケメン
第四章

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33. 対決そして…

 ひとり取り残された瑠香は、身動きが取れないまま、まわりを見渡した。

 四方をコンクリートの壁に囲まれた窓ひとつない部屋だった。ドアに鍵をかけられたら脱出は不可能だ。病室だった空間がいまや監獄に早がわりしたのだ。

 朝食の乗ったワゴンも倒れた細田も当然片付けられていた。

 背上げモーターを作動されれば革バンドは千切れるだろうか。いや、スイッチは手の届かないところにある。たとえ手が届いても、バンドがちぎれる前に自分の胴体がちぎれるだろう。

 まもなく健太がここにやってくる。わたしは健太に殺される。絶望感よりも「これで楽になれるかも」という安堵感が心をよぎった。


(楽になれるって? そんなこと考えたら駄目!)

 瑠香は熱海港での決意を思いだした。


(わたしは誓ったはずよ、あの人のために生きると! もう一度あの人に会うまでは死ぬわけにはいかないと!)


 思い切り体を揺さぶった。革が食い込んで激痛が走る。

 構わずに揺さぶり続ける。胸と膝をおろし金でこすられたような痛みだった。

 それ以上に足の傷が痛い。傷のズキズキに連動して頭までズキズキしてきた。

 それに耐えて五分ほど暴れ続けた。

 いったん動きを止めて体を見てみる。1ミリたりとも移動してなかった。

 ドアが開いた。瑠香は反射的に目を閉じた。

 入ってきたのは細田だった。もう気絶からさめたようだ。頭に包帯を巻いた彼は部屋の隅に歩いていき、ビデオカメラを三脚に設置した。どうやらこのカメラは実験体同士の対決を別室でモニタリングするためのものらしい。

 細田はカメラの電源をコンセントに差し込むと、部屋を出て行った。

 再び目を開けた瑠香は、設置されたカメラを見て怒りがわいた。

 馬鹿にしてる! 健太がわたしを殺すところを、まるでスポーツ中継のように観戦しようというのか。

 瑠香は右肩をグイッと下げた。とたんに右の乳房に激痛が走った。


「ううっ!」

 バンドは乳房の下に這わせてある。肩を下げると乳房に食い込む仕掛けになっている。


(何でこんなに胸が大きいのよ、ちぎって捨ててしまいたい!)

 歯を食いしばり、文字通りちぎれるのも構わずに下げ続けた。

 スウェットに血がにじんできた。乳房の下が本当に裂けたのである。


「あああああああ!」

 全身から汗が噴出した。スウェットはバケツをひっくり返したように濡れていた。


 しかしそのおかげで、押さえつけられていた右手の関節部分がバンドからずれて、動かせるようになった。

 その右手をスウェットパンツの中に這わせる。

 指の先端が水鉄砲に触れた。しかしそれ以上先に手が動かない。手を届かせるためには、もっと肩を下げる必要があった。

 ドアが開き、今度こそ健太が入ってきた。瑠香は反射的に目をつぶる。

 電動車椅子に乗った健太は、うつろな目を見開いてゆっくりと移動した。手元のレバーをあやつって、確実に目標に向けて車椅子を進めてくる。

 目をつぶっている瑠香は車椅子のモーター音を頼りに健太との距離を測っていた。

 モーター音に混じって、呪文のような声が聞こえてきた。


「たーげっ、のいきを、めろ」

 その言葉が健太の口元から低くつぶやくように流れてくる。


(いけるかもしれない)

 瑠香は深呼吸すると、ふたたび右肩をおもきり下げた。


 先ほど開いた傷口に、さらにグリグリとバンドが食い込んでくる。革バンドで肉を切ってるようなものだ。

 気が狂いそうになるほどの激痛だった。熱海港で泳ぐことなど、この苦痛に比べたら天国だとさえ思った。

 健太はターゲットだと教えられた女の顔を見た。かつていっしょに遊んでいたねーちゃんという認識はすでにない。彼にとってはただの標的だった。

 博士の予想通り、健太は唇を見ても性衝動は起こらなかった。

 女が目をつむっていることに気がついた健太は、教えられたとおり第二の方法をとった。懐からナイフを取り出し、それを逆手に持って振り上げる。

 経験のない彼には肋骨の下にある心臓をねらう事はできない。かわりに首筋をねらえと教えられた。頸動脈に達するほど深く切り裂けと。


「たーげっ、のいきを、めろ」

 健太はナイフを振り上げたままの姿勢で車椅子を加速させた。


(とどいた!)

 瑠香は太ももの水鉄砲をつかむと、急いで引き抜いた。


 健太に銃口を向けようとするが、体を固定されているので上手くねらえない。

 いびつな角度で手首を捻じ曲げ、なんとか目指す方向に向ける。手がけいれんしてプルプル震える。

 これでいくしかない。とにかく一発勝負だ。狙いが外れたらそれで終わりだ。


「たーげっ、のいきを、めろ」

 健太の声がすぐ近くで聞こえた。


 その発声源に向けて瑠香は引き金をしぼった。銃口から茶色い液体が噴出して健太の口にかかった。

 車椅子がベッドにゴツンとぶつかる。

 心臓に鋭い痛みを感じた健太は、痙攣するように体を折り曲げた。そのせいでナイフは狙いをそれ、瑠香の肩に突き刺さった。

 やがて彼は全身をぶるぶる震わせると、ベッドに倒れこむような姿勢のまま動かなくなった。

 茶色い液体の正体はきのうの夕食に出た味噌汁だった。それに水を足して海水の塩分濃度と同じ状態にし、そこに唇を浸した。

 健太救出の役に立てようとして作った毒素汁である。多人数を相手にしなければならない場合を想定したのだ。

 皮肉にもそれが健太の命を奪う事になった。

 目を開けた瑠香はベッドに顔をうずめている健太を見て深い喪失感を感じた。肉体の苦痛はまだましだった。この喪失感は生きる気力を奪い取る。


(健太……)

 だが彼女は驚異的な精神力を発揮して気持を切り替えた。肩のナイフを抜き取ると、自分を拘束している革バンドに刃を当てた。

 バン! という音とともに勢いよくドアが開き、


「何てことをしてくれたんだ! これで父さんは破滅だ!」

 本多博士が飛び込んできた。


(お父さんがこんな人間になったのは事故のせいだ。仕方がないんだ)

 心の中で念仏のように唱えながら、瑠香はバンドを切っていった。

 博士は直径1メートルの円をぐるぐる回るように、せわしなく歩いている。


「実験体二号が死んでしまったいま、組織とのパイプは切れたも同然だ。おまえの廃棄処分はどうあっても覆らないからな。補助金は廃止だ。局長は怒って帰ってしまわれた。空いてるエージェントを総動員しておまえを仕留めるとおっしゃってたぞ」


 上半身を縛っていたバンドが切れた。たちまち血流がよみがえり、胸の傷口から血が噴出した。スウェットの赤いしみがどんどん広がっていく。

 続いて背上げモーターで上体を起こしてから膝のバンドに取り掛かる。


(事故が起きる前は普通の父親だったはずだ。やさしい父親だったはずだ)

 瑠香は実験前の父親の姿を心に描こうとした。しかしそれは浮かんでこなかった。実験前の記憶はぼんやりしていて彼女自身にもよく分からない。

 幼い自分を殴る父親や、飲んだくれる父親の姿が断片的に浮かぶだけである。


(そんなはずはない! お父さんは……お父さんは……)

 膝のバンドも切れた。瑠香は過去を思い出すのをやめた。

 おあつらえ向きに電動車椅子がある。瑠香はそれに乗って部屋を出る事にした。

 同じ場所をぐるぐる回りながらブツブツ言ってる父は部屋に残した。

 廊下に出ると、瑠香はエレベーターで一気に地下まで下りた。


 国立遺伝子工学研究所は窓ひとつないコンクリートの立方体である。一ヶ所しかない出口を固められたら袋のねずみだ。

 しかし出口は本当に一ヶ所だけだろうか?

 このあたり一帯は戦前、陸軍の軍学校や医学校があった場所である。かつての陸軍は施設同士を地下道で結び、網の目のように張り巡らせていたという。

 教会はむかし陸軍の将校会議所だった。研究所は陸軍医学校の施設を転用したものである。研究所と教会は道路を挟んで目と鼻の先である。その地下には教会へ通じる抜け道があるのではないか? 瑠香はそう考えたのだ。

 地下に下りるのは初めてだが方向感覚はある。彼女はエレベータの位置から教会の方角の見当をつけて車椅子を走らせた。

 地下は倉庫になっていて、古い機材や標本が雑然と置かれていた。奥に進むにつれて年代が古くなっていく。

 やがて瑠香は最も古いと思われるエリアに入った。


(地下道の入り口があるとしたらこの辺りね)

 そこは木の棚に瓶詰めのホルマリン標本が並んでいる部屋だった。


 まるで戦前にタイムスリップしたようだ。白髪白髯のマッドサイエンティストが怪しげな薬品を調合する世界である。

 その中を最新鋭の電動車椅子で進む自分がおかしかった。

 壁はむき出しの鉄板で覆われており、地下室というより船室の壁という感じである。そしてさらに進むと、部屋の一番奥に船室の扉のようなものが見えた。


(これだ!)

 扉の上にはプレートがあり、右から左に「第弐百参拾号地下道」と書いてあった。


 扉の真ん中に鉄製のハンドルがある。どうやらこれを回して開けるらしい。

 ためしにハンドルを回してみたが、さび付いてるらしくビクともしない。

 Uターンして適当な道具がないか探してみた。すると、おあつらえ向きに1メートルほどの鉄パイプが転がってるのを発見した。

 こればっかりは座ってやるわけにはいかない。瑠香はパイプの先端をハンドルの支柱に立てかけると、肩に乗せて立ち上がった。

 パイプが肩に食い込む。先ほどの胸の傷が痛む。なにより足の痛さが尋常じゃない。

 だがそんな事はどうでもいい。

 瑠香は折れそうになるほど歯を食いしばり、渾身の力をこめて両足を踏ん張った。汗が滝のように流れる。全身の筋肉がブルブル震える。


「うおおおおおおお!」

 やがて、ギギギ……という軋みとともに、ゆっくりとハンドルが回り始めた。そしてある瞬間を境に、ハンドルの抵抗が一気に消えた。


 勢いあまって扉に激突した。瑠香はパイプを投げ捨てて床に倒れこむ。

 床に大の字になってハアハアと息を切らせた。脱出口が開いた安堵感から緊張の糸が切れた。これまでの疲労が一気に襲い掛かってくる。

 もう1ミリたりとも動けない。ひんやりした床の感触が心地いい。このまま一生ここで寝ていたい。


(だめ! 脱出しなきゃ)

 ふたたび歯を食いしばった瑠香は、ありったけの精神力を総動員して起き上がった。まるで背中を接着剤でとめられてるようだった。


 よじ登るようにして車椅子に乗ると、ハンドルを一気に回す。オクターブの高いキュルルルという音が響いた。

 いっぱいに回して止まったので左足で扉を蹴った。

 バン!

 という音とともに扉があいた。湿気とかび臭さが中から吹き付けてきた。

 覗いてみると地下道の壁はレンガでできていて、染み出した地下水によってビッショリ濡れていた。

 天井からぽたぽたと水がたれてる。猫と間違えるほど巨大なねずみが、逃げもせずこちらを睨んでいる。


(向こう側でも鉄パイプが必要かもしれない)

 瑠香は、くの字に折れ曲がったパイプを拾うと、あちこちにできている生傷を気にしながら、雑菌だらけの地下道に入っていった。

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