32. 実験体第二号
目を覚ますと、自分がベッドに縛り付けられているのに気が付いた。
革バンドが二本、ベッドをくるむように取り付けられている。乳房の下あたりに一本と膝の上に一本。それだけで瑠香は全く身動きが取れなくなっていた。
少しでも身動きするとバンドがくいこんで激痛が走る。いや、膝を押さえつけられてるせいで、身動きしなくても傷口が傷む。
「気がついたみたいですよ、博士」
局長の耳障りな声に続いて、
「瑠香! おまえ何てことしてくれたんだ」
父親の怒鳴り声が響いた。
「お父さんがどういう立場にいるのか分かってるだろ! おまえのせいで組織からの補助金が打ち切られたら、わたしは研究所にいられなくなるんだ」
五年前、娘を使った実験に失敗して大惨事を巻き起こした本多博士は、その責任を問われ、研究所から放り出されるところだった。
だが、失敗の結果特異体質になった娘を組織に貸し出し、その見返りとして補助金を引っぱってくる事に成功した博士は研究所に返り咲くことができた。
「いや、本多博士のお怒りはごもっともですが、ご安心ください」
小柄な局長は背伸びするように博士の肩を叩く。
「実験体第二号がおります。あの子がエージェントの任務をこなせるようになれば、組織からの補助金は打ち切られずにすみます」
実験体第二号とは坂東健太の事だろう。一号が誰かは言うまでもない。
「わたしみたいな人間を、これからも増やすつもりなのね」
瑠香は憎しみをこめて局長にらみつけた。
「俊夫アンドリュースはナンバー4になるのに七年かかった」
局長は面白がってるような口調だった。
「ところがきみはわずか三年でナンバー3にまで上り詰めた。これだけ短期間でそうなった人間は前代未聞だ。増やさない手はない」
「あんな小さな子をそんなつらい目にあわせたら、きっと壊れてしまう」
「そんなことは分からない。きみを越える成績を残すかもしれない。逆に使い物にならないかもしれない。明日死ぬかもしれない。先のことは誰にも分からん」
「そんな、いいかげんな」
「打てる手があるならすべて打っておく。とりあえず思いつく限りのアイディアを試し、その中のひとつでも実れば成功と考える。そういう方法論もあるんだ」
いかにもアメリカ的な考え方だ。同時にそれは、豊富な資金の裏付けがあって初めて成立する方法論でもある。
はたして日本支部にそこまで潤沢な資金が下りるものだろうか?
「だとしても……どうしてあんな子供を」
「倫理的な嫌悪感を取り払って考えてみろ。子供を警戒するやつはおらん。大抵の場所では、居ても怪しまれん。立ち入り禁止区域に入り込んでもイタズラですむ。エージェントとしてこれほど理想的な存在はないだろ」
「良く分かった、あなたは人間のくずだわ。いえ、怪物ね……わたしなんか足元にも及ばない」
「驚いたな、あれだけ完璧だった無表情の仮面が取れかけているじゃないか。憎しみの表情と無表情が交互に現れている。気持ち悪いが、ちょっとした見ものだな」
局長の言葉に衝撃を受けた。どうやら自分の体質が変化しているらしい。
異常なまでに感情が表に出ない特性が崩れかけている。この傾向が続けば、人並みに泣いたり笑ったりできる日が来るかもしれない。
「どうも気持悪い娘で申し訳ありません」
父が局長に追従する。
「思えば、おまえがマスクを取ったときの様子は完ぺきだった。カンのするどいわたしが、まんまと騙されたんだからな。あまりにも完璧すぎたと言っていい。その反動なのか、今のおまえは表情に一定間隔でノイズが入るようになっている」
「あなた、どうして唇を見ても平気なの?」
「博士から話を聞いてたんだ。可視光線が唇を反射して網膜に入る事で誘引作用は発動する。しかし映像でなら、きみの唇を見ても平気なのだ。いったんデジタル信号に変換され、それを再構成したものだからな。ところでこのサングラス」
局長は右のちょうつがいのあたりをポンと叩いた。
「ここにカメラが仕込んである。これで撮った映像は同じサングラスの内側に投影される。ヴァーチャルリアリティ技術を応用したものだ」
つまりサングラスにはめ込まれているのはレンズではなくスクリーンだったのだ。局長はレンズ越しではなくカメラ越しに瑠香をみていたのだ。
「博士の理論をもとに組織が開発したんだ。そうでもしなければ危なくてお前と会うことはできないからな。間に合ってよかった」
「お役に立てて何よりです」
父が深々と頭を下げた。
局長はそんな本多博士を不思議そうな顔で眺めると、ベッドに近付いてきた。
「さっきから疑問に思ってたんだ。わたしはサングラスがあるからいいんだが、博士はどうして唇を見ても平気なんだ?」
小声でささやくように言った。その言葉に全身の血の気が引いていく思いがした。
「きみの唇を見たものは例外なく発情する。その影響から逃れるにはきみとセックスするしかない」
どうやら局長は気付いたらしい。
「ところで、お父さんは娘に何の愛情も持ってないように見えるねえ」
彼の口元が次第にニヤついてきた。
「セックスすると、きみに何の興味も持てなくなるんだろ?」
「やめて!」
耳を押さえて金切り声を上げたかった。しかし縛られていてそれができない。
「あれは事故よ! 仕方なかったのよ!」
「そうか、五年前の事故だな。そのときやられたのか! ひひひひひひ」
局長の下品な笑い声が響く。
「その実験には何人立ちあってたんだ? 博士と、助手と、それから……ひひひひ」
「どうも、お恥かしい限りで」
父がハンカチを出して額を押さえた。
「いや、失礼しました博士、どうかお気になさらず……ひひっ」
笑いがおさまるのを待って、局長は博士のところ戻って肩を抱いた。
「大変残念ですが、上司であるわたしを殺そうとした娘さんの罪は重大です」
「まったくその通りです」
「他への示しもありますし、見逃すわけにはいきません。廃棄処分です」
「そりゃもう、局長のいいようにされて結構です」
「そこで、ものは相談ですが、その処分を実験体二号にやらせてみたいと思うんです」
「えっ……」
博士はここで絶句した。
「もちろん早すぎるのは分かってます。まだ自立して歩けない状態ですからね。しかし薬物洗脳による条件付けは終わってますから、車椅子を使えば任務遂行は可能です」
「しかし、あまり無理をさせると壊れる危険が……」
博士は新しい実験材料が早々に壊されやしないか心配らしい。
「これもテストのうちです。それに、誘引力のある唇を持つもの同士が出会ったら何が起きるか、研究者として興味がありませんか?」
「その点についてはあるていど予測がつきます。実験体二号は精通前ですし精神年齢もいちじるしく低い。おそらく性衝動が高まる事はないでしょう」
博士は突然スイッチが切り替わって研究者の顔になった。
「なるほど、もとから性欲がなければ衝動の高まりようがないわけか」
「対して実験体一号は体も十分成熟してますし、網膜の構造にも欠陥がありません」
「すると瑠香のほうは影響を受けてしまうということですな」
「予想ではそうなります」
「ひひひ……それは面白い! この無表情女が発情してもだえ苦しむわけか。それは見たいぞ! こりゃ何としても二人には対決しもらわねばならん」
まるで目の前におもちゃをぶら下げられた子供である。局長はみずからの思い付きに興奮をかくせなかった。博士を抱えるように部屋を飛び出した。




