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誘蛾灯の女~そのくちびるを見た者はことごとく魅了され、そして死ぬ  作者: メガネを取るとイケメン
第四章

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31. 少年との再会

 打ちっぱなしのコンクリートに四方を囲まれた何もない部屋に、医療用ベッドだけが一台置かれていた。それが現在の瑠香の生活空間である。

 大腿部に深い刺傷を負った彼女はそこで療養生活を送っていた。

 特異体質である瑠香は普通の病院に入院することができない。だから父親がつとめる国立遺伝子工学研究所で手術を受けたのだ。

 イレギュラーな事態だったので、病室には研究所内の空き部屋が当てられた。傷口はふさがり、そろそろリハビリを始める段階にきている。


 枕もとのボードに乗せられた目覚まし時計が鳴った。

 瑠香は背上げモーターのスイッチを押して上体を起こした。自力で上体を起こすと、まだ傷口に痛みが走るのだ。

 素足をリノリウム張りの床につけ、そのひんやりとした感触を味わう。それから松葉杖の先端で目覚ましのスヌーズボタンをポンと叩く。

 マットの下に隠してある携帯をとってメールの着信履歴を開いた。そこには小田真一の名前がズラリと並んでいる。

 彼とメールのやり取りをするようになって一か月が経とうとしていた。

 落合の駅前で泣かれたときはまいった。孤独に慣れてない人間は、たかだか一か月放っておかれるだけでああなるんだと、初めて知った。

 それからメールでのコミュニケーションを思いつくのに、さらに一か月かかった。我ながら天才的な発想だと思った。

 直近のメールを開くと、後期授業が始まった時の語学クラスの様子がつづられている。


(夏休みが終わってもう一週間か……)

 瑠香のまなざしがフッと翳った。


 休学中の彼女に大学のスケジュールは関係ないが、真一と夏の思い出を作れなかったことが悔やまれる。

 思い出らしい思い出といえば、水鉄砲で遊んだつかの間のひと時だけだった。そのときを最後に、真一と会えない状態が続いている。

 瑠香はスウェットパンツに手を突っ込んだ。左の太ももにゴムバンドで止めた水鉄砲を抜き取る。ベッドに腰掛けたまま、壁に向かって構えた。


「ばーん」

 クルクル回してまたパンツのなかに突っ込んだ。


「いたた……」

 銃口が右足をかすった。ジーンとくる痛みに顔をしかめる。


 真一との思い出の品を、ももの内側に肌身離さずもっていた。スウェットはぶかぶかなので外側から見ても分からない。

 組織に提出した報告書には、真一が関わった部分について嘘八百を並べておいた。彼は組織の許容範囲をこえる秘密情報を知ってしまっているからだ。

 桃園百合子に別荘からの救出を依頼したときも、何も知らずに巻き込まれた友人と説明した。俊夫アンドリュースも真一のことは組織に黙っていたようなので、桃園以外は彼の存在すら認識していないだろう。

 鍵を開ける音がして、病室のドアが開かれた。とっさに唇を手で覆う。


「心配ない、ぼくだ」

 入ってきたのは小柄な四十男だった。朝食を乗せたカートを押している。


 研究所内にも瑠香の誘引力に免疫を持つものが数名いる。この細田もその一人だった。かつて父の助手だったが、現在は上司になっている。

 瑠香は唇から手をはなすと食器の横に置かれた新聞を取った。一面にひき逃げ事故の記事が載っている。

 その被害者の顔写真に見覚えがあった。たしか“研究会”メンバーの一人である。どうやらミッションは別のエージェントに引き継がれたらしい。

 何の感慨も浮かんでこない。ただ「そうか」と思うだけである。

 新聞を読む彼女の様子を、細田は腕を組んでじっと眺めていた。モルモットを観察する目だ。同情やいたわりの心はかけらもない。

 瑠香に免疫を持っているということは、彼女に何の興味もないということだ。

 新聞を置くと、瑠香は松葉杖を取って立ち上がった。手近の食器をつかんでゆっくりと細田にむかって歩いていく。


「ん? どうした」

 いぶかる細田の目の前で食器を床に落とした。彼の目が床に向いた。

 そのスキを突いて、瑠香は松葉杖を側頭部に叩き付ける。

 細田が床に倒れこんだ。勢いあまって瑠香も倒れこんだ。右足に激痛が走る。


「ううっ……くっ」

 瑠香はたまらずうめき声を上げた。しかしグズグズしてはいられない。彼女は痛みに耐えながらカートまではいずると、それにつかまって立ち上がった。

 本当は経絡秘孔を突きたかったが、足の踏ん張りがきかないので、こういう手段を取ったのだ。

 細田は大の字に倒れたまま起き上がらない。

 マスクを装着した瑠香は、松葉杖を突いて研究所の廊下に出た。

 きのうの夜、夕食を運んできた細田の後ろを小さな人影が横切った。ドア越しに一瞬見えただけだったが、たしかに見覚えのあるシルエットだった。


(あの人影は健太だった……研究所内に健太がいるんだ)

 八百屋の店番をよくやってた坂東健太。彼はある日とつぜん店から姿を消した。

 真一の話では養子に出されたという。その健太が研究所内にいるということは……


(研究所に売られたということだろう。人体実験のモルモットにするために。わたしにした事と、同じことをするために)


 マスクに隠された瑠香の唇は怒りにゆがんでいた。

 この時間帯は所内に人が少ない。彼女は勝手知ったる様子で廊下を進み、目的の部屋にたどり着いた。

 そこは普通の生活を送っていた本多瑠香という少女が、特異体質の殺し屋に生まれ変わらされた場所――第八実験室だった。

 中央にベッドが置かれ、その周囲にはよくわからない機械が雑然と置かれている。瑠香の脳裏に焼き付いている五年前の光景そのままだった。

 違うところといえば、ベッドに寝ているのが人形めいた顔立ちの十三歳の少女ではなく、元気だがすこし知恵の遅れた少年であることだ。


(やっぱり!)

 ベッドのわきに駆け寄った瑠香は彼を見て息を呑んだ。

 健太の唇は医療用マスクで隠され、さらにズレないようテープでとめられていた。その意味するところは明らかだ。


(遅かった……)

 瑠香の心に絶望感が広がる。

 周囲の機械からチューブが延びていて、健太の腕や足、そして腹部につながれていた。一本でも抜くと容態が悪化しそうで手がつけられない。


「健太くん、健太くん」

 瑠香の呼びかけに、少年の目がゆっくり開いた。その目はうつろにぽっかり開いて宙をさまよった。目の前で手を振っても焦点を結ばない。


「た……のい……ろ」

 健太のマスクから声が漏れた。身を乗り出して耳を近付ける。


「たーげ……のいき……めろ」

 耳を澄ますと、その言葉は次第に明瞭になっていった。


「たーげっ、のいきを、めろ」

 瑠香はの眉は悲しみにゆがんだ。「ターゲットの息を止めろ」といってるのだ。それは組織のエージェントが最初に叩き込まれる言葉だった。


(おそらく薬物洗脳だ)

 脳に障害を持つ少年をエージェントに仕立て上げるには、薬物の力を借りなくてはならなかったのだ。

 瑠香のまゆはよじれ、肩が震えた。しかし涙は出なかった。


(泣きたいのに泣けない。どうしても涙が出ない……どうして? わたしが普通とは違う人間だから? 唇で人を殺す化け物だから?)


 父親から言われた「笑ったことのない人間」という言葉を思い出す。

 顔の皮を引き剥がしたくなった。この気味の悪い無感情の仮面を。


「ごめんね健太くん、ボサボサ頭のねーちゃんを許して」

 手を伸ばして優しく頭をなでた。彼のために泣いてやれない事にたいする謝罪だった。


「本多瑠香、こんなところで何をやっている」

 耳障りな声にふり返ると、チャールズ・コロンボの貧相な面構えが目に入った。変装のつもりか仕立てのいい紺色のスーツにサングラスをしている。全く似合ってない。


「いまのおまえに課せられているのは治療に専念することじゃないのか?」

「すいません」


 ペコリと頭を下げると、松葉杖をついてベッドから離れた。憎んでいた無表情の仮面をみずから取り付けた。

 わたしの中の怒りを、この男に悟られてはいけない。コロンボのわきを通ってドアに向かう。

 彼は油断のない様子で瑠香をうかがっていた。


「そうだ、局長」

 ドアにかけた手を引っ込め、瑠香はなにげなくコロンボを振り返った。


「何だ」

「お見せしたいものがあるんです」

 そう言うと、ごく自然な動作でマスクを外した。


「これは重大な反逆行為だ。見過ごすわけにはいかんな」

 局長は微動だにしなかった。顔色に何の動揺もみられない。下腹部にも変化はない。

 彼は胸ポケットから短いシャーペン状の器具を取り出した。


「エージェント11811号を拘束する」

 特殊注射器の先端を瑠香の首筋に叩き付けた。

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