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誘蛾灯の女~そのくちびるを見た者はことごとく魅了され、そして死ぬ  作者: メガネを取るとイケメン
第三章

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30. 急転直下

 熱海市の北側にある伊豆山エリアは、各種保養施設や大型別荘が立ち並ぶ高級リゾート地である。

 その一角にある渋い和風建築が真壁の別荘だ。広い庭を抜けて玄関に入ると、すぐ左手に奇妙なスペースがあった。

 ふすまの下に畳を縦半分に切った大きさの囲いがあり、そこに踏み石と玉砂利が敷き詰められているのだ。

 室内にこういうものを作るのは料亭でよくあるギミックだ。

 ふすまを開けると、熱海市街や相模湾を一望できる八畳の書斎になっていた。ここが真壁の仕事部屋である。

 ところが現在、書斎の机は隅に追いやられ、部屋の中央には代わりに布団が敷いてあった。

 その布団の前で、小田真一が意外な成り行きに呆然と立ちつくしてしていた。


「どうなってんだ……こりゃ」

 真一は唖然とした表情で布団に転がっている男を見た。これから自分を抱こうとしていた甘いマスクの評論家だ。


「あ……あなたは一体……」

 次にその傍らに立っている小太りの中年女性をみた。まったく知らない女だ。


「主よ、許したまえ」

 目を離した瞬間に忘れてしまいそうなほど平凡な顔立ちをした女性は、そんな言葉を口走った。


「これはね、麻酔薬入りの特殊注射器なの」

 と手に持った短いシャーペン状の器具を胸ポケットにしまいながら言った。さっきこれを首に突き立てられた評論家が、突然たおれて動かなくなったのだ。


「それで、あなたは……」

「そんな事はいいから早く逃げましょ」


 中年女性は真一の腕を掴むと書斎から引っぱり出した。

 外はすっかり暗くなっている。広い別荘の庭を走りながら、真一はここにいたるまでの経緯を思い出していた。

 俊夫との打ち合わせどおり、真一はクルーザーの中で真壁と“研究会”の一行を出迎えた。するとこれまた俊夫の予想通り、真壁はよだれをたらさんばかりの表情になった。

 用意しておいた「明日は法事なのでクルーザーに同乗できません」というせりふを真一が言うと、真壁も急遽乗船を中止した。

 そして真一を連れて別荘にUターンしたのだ。出前のうな重をご馳走になって、それからまもなく書斎に連れ込まれた。


(ああ、前にもこんなことがあった。あのときは瑠香に手を引かれて……)

 高田馬場のホテルで、真壁の毒牙にかかる前に助けてくれたのだった。


 そしてつい今しがた、いきなり書斎に現れて瑠香と同じ事をしてくれたのがこの見知らぬ中年女性だ。

 前回もわけが分からなかったが、今回はそれに輪をかけて分からない。

 真一は覚悟を決めていたのだ。評論家に抱かれてやろうじゃないかと。それが瑠香に対する愛情の証明のように思ったからだ。

 何だか分からないけど瑠香が犯罪に協力している。だったらおれも一緒に地獄に落ちてやろうじゃないか。

 虎穴に入らずんば虎子を得ず。彼女とおなじ立場に身をおいて、抜け出す機会をうかがうのだ。そのためなら尻の穴のひとつやふたつ……


(そんなおれの覚悟を、この初対面のオバチャンに……)

 踏みにじられたような気がした。

 二人は別荘の表に止めてあった黒塗りのワンボックスに乗り込んだ。ワンボックスはいったん南下して国道135号線に入ると、小田原方面に進路を向けた。


「瑠香ちゃんから頼まれごとなんて初めてだったから、何だか嬉しくなっちゃって」

 夜の海岸道路を北上しながら、中年女性ははしゃいだ様子でしゃべった。


「するとあなたは瑠香の知り合いですか?」

 その質問には答えず、


「でもわたしだってヒマじゃないんだから、いくら瑠香ちゃんの頼みごとだからって、そうホイホイきいてはいられないのよ」

 自分の言いたいことばかり言っている。


「母親……というわけではなさそうだし」

「うーん、どうしようかなあって考えてると、何と! あの瑠香ちゃんが!」

「親戚……は違うか」

「一緒に教会に行ってもいいって! わたし嬉しくって嬉しくって」

「近所のおばさん……って段々離れていってるな」

「わかりました。不肖わたくしが瑠香ちゃんのために一肌脱いであげましょう」

「そうだ、瑠香はバイトしてたんだ。するとバイト先の人?」

「なーんて二つ返事でOKしちゃったってわけ」

「それで結局誰なんですか、あなた」


 最後まで質問には答えてもらえず、真一は実家にほど近い鵠沼海水浴場付近で下ろされた。時刻は十時を回っていた。


「お盆ぐらい実家に帰ってあげなきゃ、ご両親がかわいそうよ」

 そういい残して、知らないおばさんは東京方面に走っていった。


       〇


 翌日、真一は実家のリビングでぼんやりとテレビを見ていた。

 家の様子も家族の顔も、出ていったころと何も変わっていない。彼の部屋は高校時代のまま手つかずで保存されていた。

 こうして実家にいると、昨日までの出来事が悪い夢のように思えてくる。それどころか、東京で一人暮らしをしていた事すら忘れそうになる。


「……またもや真壁京四郎関連のニュースが飛び込んできました」

 地元局のローカルバラエティ番組で、司会のアナウンサーが切迫した様子で原稿を読み始めた。


 真一は油断していたところにいきなり評論家の名前を耳にしてビクッとなった。とうとう爆弾が爆発したのだと思った。

 昨夜は遅くまでテレビにかじりついて爆破のニュースが流れるのを待っていた。しかし三時まで粘ってもそんなニュースが出てこないので、すっかり安心して寝てしまった。爆破は中止されたのだと思い込んでいた。


「昨夜おこなわれた真壁氏主宰の船上パーティで行方不明となっていた俊夫アンドリュースさんが、伊東市の海岸で遺体となって発見されました。アンドリュースさんはひとりでデッキに出ていたところ、足を踏み外して海中に転落したものとみられます。この知らせを受けた真壁氏は、先ほどマスコミ各社に声明を発表しました。真壁氏は声明で、亡くなられたアンドリュースさんの冥福を祈るとともに、自身が主宰している“研究会”の解散を決意したとのことです……」


 画面に映し出された俊夫アンドリュースの顔写真は、安藤俊夫の美貌と完全に一致していた。まさに急転直下の結末である。

 真一は口をぱっくり開けて顔写真を凝視した。

 おそらく爆破スイッチを押す直前に事故が起きたのだろう。大量虐殺が回避されたのみならず、爆弾魔自身があっけなくこの世を去ってしまった。


(ということは、もう瑠香は犯罪者の言いなりなる必要がなくなった。そしておれを避ける理由もなくなったわけか……)


 あまりにも突然のことなので、何の感情もわいてこなかった。ただテレビの画面を見続けることしかできなかった。

 テーブルに置いた携帯からメールの着信音が鳴った。差出人を見ると『本多瑠香』とある。


「えーっ!!」

 思わず大声が出てしまった。


 今頃になって彼女からメールを受け取るとは思わなかった。

 なにしろ最初にベッドを共にしたのは二か月も前なのだ。真一はすっかりあきらめの境地に達していた。

 彼は震える手で恋人からの初めてのメールを開いた。


『ちょっと足を怪我したので、しばらく入院します。また会えなくなりますが我慢して下さい。私もつらいです。夏休みが明けるころには退院できるので、そのときは二人で動物園に行きましょう』


 彼女らしいそっけない文章である。入院とは穏やかじゃないが、文面から察するに深刻な怪我というわけではないようだ。

 ともあれ爆弾魔の脅威が取り除かれたわけだから、二人の関係はこれから少しずつ正常化していくだろう。

 メールはその第一歩だと真一には思えた。

第三章はここまで。次が最終章です。

ふたたび瑠香の視点を中心にした物語になります。

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