29. 宇宙と海のあいだに
クルーザーは夜の熱海港をぐるりと周遊していた。
海から見る熱海の夜景は絶品である。極彩色のネオンがきらきら光り、輝く宝石を山盛りにしたように見える。
二階デッキでのバーベキューは終わり、一行は下のホールに場所を移して宴会を続けていた。若者グループとはいえお堅い性格のものが多いのだが、幹事役の俊夫による巧みな話術のおかげで、それなりに盛り上がっている。
ホールの屋根と操縦席の床のすきまに貯蔵スペースがあった。
普段はバーベキュー用の食材などを入れておくのだが、今回はクライアントが食材を持参したので何も入れてない。
その貯蔵スペースの扉が開いた。
中から鳥の巣のような頭にマスクの女が現れた。女は右手に小型の特殊注射器を持っていた。短いシャーペンのような形状だ。
彼女は音もなく船長に近付くと、注射器の針を首筋に叩き付けた。同時に反対側をノックして麻酔薬を注入する。
船長は何が起きたのか分からないうちに眠ってしまった。
続いて女は貯蔵スペースからウエットスーツと小型アクアラングを取り出した。手早く装着すると、デッキの隅にじっと座る。
やがて、はしごを上って俊夫がやってきた。デッキを見回して女を見つけると、ニヤリと笑って近付いていった。
「おい本多、船長は仕留めたか?」
「はい」
瑠香はゆっくりと立ち上がった。
「心臓発作に見せかけて殺すのはおまえの得意技だからな。こればっかりは手を借りなきゃならん。悔しいがな」
俊夫は唇をゆがめながら言った。
まず船長が心臓発作で倒れる。これが彼の描いたストーリーだった。最初に船長を始末したのは、乗客を救助されては困るからだ。
しかし瑠香は嘘をついていた。船長は眠っているだけなのだ。
「ホールのドアには鍵をかけておいた。後は爆破スイッチを押すだけだ」
俊夫はポケットからリモコンスイッチを取り出した。
「ちょっと持ってろ」
瑠香にリモコンを渡す。
「それで、ぼくのウエットスーツはどこだ?」
シャツのボタンを外しながら、俊夫はデッキを見回した。
船底を爆破したあと二人はウエットスーツをきて脱出する。そういう段取りだった。そのために前もってスキューバ・ダイビングのプール講習を受けていた。
「ないわ」
「あ?」
「あなたのウエットスーツは用意してない」
突然――
瑠香は親指を俊夫のみぞおちに突き立てた。
「経絡秘孔の場所はこれで合ってるかしら、教官?」
「なにやってんだ、てめえ!」
俊夫の目が驚愕に見開かれた。すぐに全身がしびれてストンと尻もちをつく。
「あなたはことを急ぎすぎたのよ」
瑠香の声は普段にもまして冷たく響いた。だが彼女の白いマスクは、熱海のネオンを受けて鮮やかな虹色に染まっていた。
「ホテルを爆破するという派手なやり方。しかも無関係の通行人を巻き込む危険性をかえりみない無神経。きわめつけは部外者の船長を殺すという乱暴な手口。これらは上層部の意に反するのよ」
「し、仕方ないだろ。短期間で多くを仕留めなきゃ追いつけない。ナンバー1にはなれないんだから」
俊夫は必死で全身のしびれに抵抗していた。歯を食いしばり、脂汗を流していた。その様子を見るに、すこし突きが甘かったかもしれない。
「とにかく、上層部はあなたの廃棄処分を決定した」
「しかし……おまえはエージェントじゃない。こんなことをする権限なんか」
「とっくに復帰しているわ」
「えっ?」
「いつか教会の事務室で作戦会議をしたことがあったわね。あのあと、わたしは局長に呼ばれて地下に下りた。そこでエージェント復帰の辞令を受けた。復帰後の最初のターゲットが俊夫アンドリュース、あなただったの」
「あのとき局長が留守だといったのは嘘だったのか……」
「わたしが辞令を受けたとき、同時にあなたはエージェントのポジションを失った。つまり、とっくにランキングに登録される権利を失ってたのよ」
喋りながら、瑠香は防水ポーチから瓶とハンカチを取り出した。
瓶の中にはあらかじめ毒素を抽出しておいた溶液が入っている。昼間はこれの抽出作業の影響で、デッキで倒れるというアクシデントに見舞われた。
ふたを外し、中の液体をハンカチにしみこませる。
「も、桃園百合子はそのことを……知ってたのか?」
「もちろん。だって局長が留守だといったのは桃園さんでしょう?」
「あのババア……ぼくのために祈ってると……言っておきながら」
「桃園さんはちゃんと毎日祈ってたわよ。あなたが天国にいけるように」
背後に回り込んだ瑠香は、俊夫の口にハンカチを押し付けた。
十秒ほどで彼は苦しそうに心臓を押さえた。しばらく全身を痙攣させ――やがてピタリと動かなくなった。
緊張をといた途端、右の太ももに鋭い痛みを感じた。
瑠香の太ももにナイフが突き立てられていたのだ。意識が途切れる直前に俊夫がおこなった最後の抵抗だった。
(ナイフを抜くと血が噴き出てしまう。デッキに血痕を残すわけにはいかない)
少し考えて瑠香はナイフをそのままにして立ち上がった。
激痛に耐えながら操縦室から大型ランプを持ち出した。それを西に向けて点滅させる。しばらく続けていると500mほど先から応答の点滅が返ってきた。
瑠香は倒れている俊夫を抱え上げて柵にもたれさせた。
柵のすきまから右足を突きだし、ナイフを抜き取る。プシュッと音を立てて吹き出した血はそのまま海に吸い込まれていった。
ナイフを放り投げたあと、俊夫のシャツをはいで傷口を縛った。続いて父の研究所でもらった保護クリームを唇にたっぷりと擦りこむ。
最後に小型酸素ボンベをチェックし、呼吸装置を口にくわえた。
「酔って前後不覚になった男が海に落ちる。ちょうど船長は居眠りしていたので気がつかない。男はもがいてるうちに心臓発作を起こす。よくある事故ね」
そうつぶやくと、死体につかまって海に飛び込んだ。
俊夫を蹴ってスターター代わりにした。そのまま懸命に足をバタつかせる。おせじにもスムーズな動きとはいえなかった。
一応、俊夫と一緒にプールで講習は受けていたが、波の中を泳ぐのは初めてである。
以前、瑠香は「海が苦手」と真一に語った。それは本当のことだった。
水泳の授業が受けられなくて上達の機会を失ったのもあるが、もっと根本的な問題があった。海水の浸透圧である。
唇を海水につけると毒素が流出してしまうのだ。毒素が流出すると、瑠香の体力は極端に奪われる。
それを防ぐために、今回は前もっていくつか準備をしておく必要があった。唇を海水から保護するクリームもその一つである。
事前に抽出しておいた毒素を使用したのも、魅了が効かない相手への対策というより、泳ぐ体力を温存するために考えた方法だった。
クリームと毒素抽出用の溶剤はあらかじめ父に用意してもらった。しかし……
(これは想像以上にきつい。右足を刺されたせいだ)
最後にこんな反撃をされるのは予想外だった。
右足が使えないので、両手と左足だけで泳いでる状態だ。おまけに血液が少しずつ失われていくのを感じる。
つまり時間をかけるほど体力が奪われるのだ。これでは毒素が流出するのと変わらない。瑠香は苦痛に耐えながら懸命に手足を動かし続けた。
(そろそろ目標物に到達するころだ)
瑠香は浮上して海面に顔を出した。ところが対象との距離を測ってみて愕然とした。まだ半分も泳いでいないのだ。
悲鳴を上げたくなるのをグッとこらえる。右足が使えないハンデは思ったより深刻だ。まずいことに、もう体力の限界がきている。
(わたしは何のためにこんな事をしてるんだろう)
ふと、そんな疑問が頭をよぎった。
(任務だから? お父さんの命令だから? それがそんなに大事なことなの? これだけの苦痛を味わった対価として、いったい何を得られるというの?)
急に何もかもが馬鹿馬鹿しくなった。瑠香は泳ぐのをやめ、体の力を抜いた。
力を抜いたら浮力が働いて水面にぷかりと浮かんだ。体をひっくり返してあおむけになった。目の前には壮大な宇宙空間が広がっていた。
(真一……)
彼女は今まで自分の特異体質を運命のように思って受け入れてきた。異常な日常を異常とも思わず、その環境に精神が適応してしまっていた。
ところがある時期から、そんな均衡状態がじょじょに崩れてきた。自分が今まで過ごしてきた環境とは別の生き方がある、という事に気づき始めたのだ。
それまでなんとも思わなかった同じクラスの男子が、ふとしたきっかけで気になりはじめる。声をかけて気をひいてみたり、無視してヤキモキさせたりする。落ち込んでる男子の悩みをきいてあげる。思い出話をきいてみる。裸になった男子の思わぬたくましさに驚き、はしたないと思いながらうっとり眺めてしまう。
もちろんそういう生き方が存在することは頭では分かっていた。
例えるならそれは民族衣装をきた外国人を見るような、自分の生活とは関係ない異文化を見るような思いだった。
しかし、一度それを体験したことで、彼女は少しずつ変わっていった。
いままで彼女の心をガードしていた無表情の仮面が、男の前でときおり外れるようになった。あれだけ任務に忠実だった彼女が、男を助けるために職場放棄した。そのあと部屋にまで押しかけた。そして、深刻な顔をして見当違いの見解を述べる男を、からかいたくなって水鉄砲を浴びせた。
あるいは知らなかったほうが幸せだったかもしれない。しかし、知ってしまった以上は後戻りできない。
(そうだ、親のためでも任務のためでもない。真一にまた会うために……)
瑠香はふたたび体を反転させ、うつぶせの体勢になった。
顔を持ち上げて距離を測る。潮の流れに乗ってだいぶ移動してしまったようだが、目標物も潮に乗っているため、先ほどとあまり距離は変わらない。
彼女はふたたび手足を動かしはじめた。
〇
十分後、瑠香はようやくゴムボートのへりに手をかけることができた。
「これだけの距離に、ずいぶん時間がかかったな」
苦みばしった中年男が顔を乗り出して声をかけた。
「すいません、海は苦手なので」
「どうした、早くあがってこい」
「もう力が残ってません。引き上げてもらえませんか」
「だらしない奴だな、泳ぎ方は教えただろ。あまり手間をかけさせるな」
安田は瑠香の腕を掴むと、軽々と引き上げた。
スキューバの経験がある彼は、瑠香と俊夫のプール講習を担当していた。
「その足どうした、血がにじんでるぞ。アンドリュースに抵抗されたのか」
「はい……最後の最後で、油断しました」
「相当ひどくやられたようだな」
「とにかく……任務完了しました」
それだけ言うと、瑠香は気絶してしまった。
「チッ、毎度毎度めんどうをかける奴だ。まあ、水中で意識を失わなかっただけましか。もし溺れても人工呼吸ができないからな」
安田はため息をつくと、ボートのエンジンをかけた。
「こんなに休暇ばっかり取ってたら警察をクビになるかもな……その時は桃園さんに仕事を紹介してもらおう。元外交官だから、何かコネがあるだろうし」




