20. 幕間悲劇
ところ変わってバージニア州のラングレーにある中央情報局本部。上空から見ると漢字の“片”の形をした複合ビルである。
その一角にある監査部のオフィスで、極東担当主任のマーティン・サンジャックは日課のメールチェックをしていた。
議会が年を追うごとに中国への対決姿勢を強めていくなか、対中工作の費用も年を追うごとに増大している。メールの内容も中国関連がほとんどだった。
件名をざっと目で追っているうちに、意味不明な記号の羅列が目にとまった。これはおそらく文字化けだろう。
差出人はアルファベットでユリコ・モモゾノとなっていた。
(この名前には覚えがあるぞ。日本外務省の女ダヌキと呼ばれていた官僚だ)
マーティンの脳裏に小太りな日本女性のシルエットが浮かんだ。ただし、どういう顔だったかは思い出せない。
彼女の得意技は、自分たちのやりたい政策をアメリカ政府に言わせて、外圧だから仕方がないと日本国民に思わせることだった。
そうすることで国民の不満をアメリカに向けさせる狡猾な手口である。
もちろんアメリカ側にも見返りがあるから協力するのだが、日本の官僚にアメリカ政府が乗っ取られているようで、あまり気分のいいものではなかった。
(まあ、それも昔の話だ。彼女は十年も前に退職したと聞いている)
かつての最重要国であった日本は、中国の台頭と入れ替わるようにして、工作費用をどんどん削られている状況だ。
モモゾノの現役時代はアメリカ一強で、軍事的なライバル国がいない時代だった。だからCIAは経済的なライバルである日本に重点を置いていた。
もっぱら政治工作ではなく企業工作を仕掛けるのだ。
マーティンにとっては不愉快な時代である。天下のCIAがアメリカ企業の下請けとなって、同盟国の企業のあら捜しをさせられたのだから。
しかも苦労して取ってきた日本企業のスキャンダル情報は、必ずモモゾノが持ってくるアメリカ企業のスキャンダルによって相殺された。
そんなことを繰り返していくうちに、いつの間にか持ちつ持たれつの関係になり、彼女に協力しなきゃいけない雰囲気になってしまうのだ。
(このメールはあきらかに誤送信だ。さっさと削除するべきだが……)
マーティンは何故かメールの内容が気になって仕方がなかった。
「ボブ、ちょっと来てくれ」
彼は日本担当係官のボブ・クサナギを呼び出した。まだ三十にもならない青年だが、日本のポジション低下を体現するような影の薄い男だった。
「主任、どうしました」
「日本からのメールなんだが、あいにく文字化けしてしまってな。そっちに転送するから、おまえのメールソフトで読ませてくれ」
「いいですけど、主任は日本語が読めましたっけ」
「いや、読めない。だから代わりに読んでくれ」
「分かりました。ちょっと待ってください」
ボブは自分のデスクからノートパソコンを取ってきた。彼は日系三世だが、日本への留学経験もあって読み書きは不自由しない。
「送信したぞ、どうだ?」
「やっぱりJISコードですね。ちゃんと日本語に変換されました」
「それで何と書いてある?」
「えーと……どうやらアレックス・コクランあてにエージェントの身上調書を送ったものらしいですね」
「アレックス・コクランだと?」
工作部門の若手管理職の名前が出てきて驚いた。ハーバードでMBAを取得したのが自慢の、鼻持ちならないエリートだ。
着任早々エージェントにランキングをつけたり表彰式をやったりと、効果の疑わしい改革を次々と実行して関係者を困惑させていた。
「差出人の桃園はコクランの協力者のようです。かねてより進めてきた“ゴルゴーン作戦”が佳境に入ってきたので、新たに人員を投入するとあります。以下そのエージェントの履歴が書かれています」
「ゴルゴーン作戦とは何だ」
そんな名前の作戦は聞いたことがない。
もちろん監査部がすべての作戦を把握しているわけではないが、やはり認可していない作戦が進行しているというのは引っかかる。
「作戦の内容は書かれてないです」
「それで新たに投入されたエージェントというのは何者だ?」
「俊夫アンドリュース、28歳、沖縄生まれ。海兵隊員の父と飲食業の母との間に生まれる。9歳の時に父親がイラク戦争で戦死。その後、母親と内縁関係になった男と同居。ところがその男に繰り返し性的暴行を受けたため、13歳の時に男を刺し殺して少年院に入る。出所後は少年院仲間のツテで大阪に移住。暗黒街の殺し屋として頭角を現すが、序列にこだわる性格が災いして徐々に孤立していく。桃園にスカウトされたのを機に東京へ移住。以後CIAのエージェントとして活動……」
「ちょっと待て、殺し屋だと?」
マーティンの胸に不安が広がっていった。
監査主任である自分の知らない計画が進行中というだけならまだしも、その計画は殺し屋を必要とする性質のものらしい。しかも「新たに人員を投入する」という事は、殺し屋は一人だけではない。
「たしかに殺し屋と書いてあります。間違いありません」
ボブがメールの該当部分を指さした。
「うーん……なんともきな臭い話じゃないか。引退した日本の外交官と工作部の若手管理職という取り合わせ。複数の殺し屋を使った秘密作戦。その舞台はエージェントの履歴からして日本に間違いない。もし支局長のコロンボ神父も関わっているとしたら、かなりの大事になるが……」
「極右サイトのディープ・ステート陰謀論を読んでるみたいですね」
「メールだけでは断定できないが、一部の勢力が組織を私物化してる疑いがある。アレックス・コクランの周辺を洗ってみる必要がありそうだ」
「それはいいですが、くれぐれも気を付けてください。工作部は伏魔殿です。それこそアンドリュースみたいな殺人マシンを大勢飼ってますから」
「心配するな。おれだって長年この業界でメシを食ってきた人間だ」
マーティン・サンジャックは自信に満ちた表情で部下を仕事にもどした。
ところが数日後、この監査部の極東担当主任は忽然と行方をくらますことになる。
〇
ボブ・クサナギはアーリントン墓地にほど近い住宅街にプリウスを停めた。三日前から無断欠勤している上司を心配して、自宅まで様子を見にきたのだ。
目当てのアパートは五階建ての古い建物だった。上司は十年前に妻と離婚して、ここで一人暮らしをしている。
部屋の呼び鈴を鳴らすと、まったく見覚えのない男が出てきた。
「どちらさん?」
「あの、ここはマーティン・サンジャックのお宅ですよね?」
「違いますね。わたしはペドロ・サンチェスです」
サンチェスと名乗る男は口ひげを生やした、いかにもメキシコ人といった風貌の老人だった。
「あなたの名前じゃなくて、この部屋の持ち主を聞いてるんです」
「だからそう言ってるでしょ。わたしがこの部屋の持ち主です」
「ちょっと待ってください。あなた、本当にここの住人ですか? 留守番とかじゃなくて?」
「失礼なやつだな。十年も前からここに住んでるよ」
「そんなはずはない。この部屋には何度も来てるんだ」
ボブは体をかたむけて部屋をのぞきこんだ。間取りや内装は記憶にあるとおりだが、家具や家電のたぐいはすっかり入れ替わっている。
初対面のアジア人に部屋をのぞかれて、サンチェスはいら立ちを隠せない様子だ。
「なんなら大家に聞いてみるか? いきなり押しかけてきて、どういうつもりだ! これ以上言いがかりを付けるなら警察を呼ぶぞ!」
とうとうサンチェスの怒りが爆発し、傘をふりあげて威嚇してきた。
「分かりました! もう帰りますから、落ち着いて下さい!」
這々の体でアパートを退散するしかなかった。
(なんてこった! 本当に陰謀論じみてきたじゃないか!)
帰りの車中でボブは頭を抱えていた。
謎のメールにかんする調査を開始した途端、上司が行方不明になってしまった。上司の住まいには別の人間が入居しており、そいつはずっと前からここに住んでいたと主張する。
このたぐいの話はよく耳にするが、まさか自分が体験するとは思わなかった。
ボブを乗せたプリウスはジョージ・ワシントン・メモリアル・パークウェイを北上した。右手には高速道路に沿って流れるポトマック川が見える。
ふと、新人時代に聞かされた都市伝説を思い出した。
ポトマックの川底にはコンクリートの靴を履かされた死体が、水草の集落のように林立している。みんな知りすぎてしまったCIA局員だという。
サンジャック主任も河底の集落に仲間入りしたのだろうか。
(いや、忘れろ。ゴルゴーン作戦のこともアレックス・コクランのこともすべて忘れるんだ。おれは何も見なかった。何も聞かなかったんだ……)
どうせすぐに新しい上司が補充される。監査部の仕事は何事もなかったように続けられ、数週間もすれば、マーティン・サンジャックという人間がいたことを思い出す者はいなくなる。
ラングレーとはそういう場所だ。
第二章はここまでです。というか実質的には前回で終わっていて、今回は閑話というか挿話みたいな感じになってます。
第三章からはふたたび真一の視点が中心になります。




