11. ある研究施設
澤田が死んで半月がすぎた。このところ梅雨のぐずついた天気が続いている。
本多瑠香は語学の講義が終わると、いつものように真っ先に教室を出て足早に廊下を歩いた。窓の外では昨日から降り続いている雨がまだ止んでいなかった。
これでは外のベンチに座ることができないので、階段の手前のスペースで日課のメールチェックを始めた。
その横をクラスメートたちが通り過ぎていった。みんなおびえたように彼女を横目で見ながら、逃げるように階段を降りてゆく。
瑠香は彼らにどんな目で見られようが平気だった。四年たったらもう二度と会うことはない人たちだ。しょせん大学生という身分はかりそめの姿に過ぎない。
あれから瑠香は語学クラスで完全に孤立してしまった。他人を自在にあやつり、念じるだけで人を殺せる超能力者というレッテルがすっかり定着している。
表立って嫌がらせされることはないが、クラスメートが彼女を見る目には憎しみと恐怖の色がありありと浮かんでいた。話しかけるどころか、彼女に近寄ろうとする人間さえいなくなってしまった。
一人の例外を除いては。
「あの……」
やや離れたところから、自分にかけたらしい声が聞こえた。見なくても分かっている。同じクラスの小田真一だ。
彼はあれからときどき瑠香に話しかけるのだが、彼女はすべて無視し続けた。瑠香をかばったせいで真一までクラスから孤立しかけているからだ。
(わたしに関わるとろくなことがない。このほうがお互いのためだ)
瑠香は彼があきらめて立ち去ってくれるのを願いながら携帯をにらみ続けた。
真一が階段を降りる気配を感じた。ホッとした反面、一抹の寂しさが胸に広がるのを感じて瑠香はとまどった。
幼い頃から孤独には慣れているはずだった。友達を作りたいと思ったことなど一度もないのに。
(どうしたんだろう。彼に対して好意を持ち始めているのだろうか?)
瑠香は自分の感じた寂しさの正体を測りかねた。ふと、もしあのとき遊園地の誘いを断っていなかったらどうなっていただろう、という考えが頭をよぎる……
(いけない。こんなことを考えていては仕事に支障をきたす)
瑠香は頭を振って気持ちを切り替えた。父から呼び出しのメールが届いていたからだ。
真一と遊園地なんて馬鹿げた妄想をしたもんだ。瑠香は心の中で苦笑した。
彼はわたしを死神ではないと言ってくれたが、とんでもない間違いだ。だってわたしは正真正銘の死神なんだから。
〇
瑠香は正門を出ると、交差点を隔ててはす向かいにある文学部の方にまわった。
文学部の校舎の裏手に、サイコロ型の四角い建造物があった。窓が一切なく、灰色のコンクリートでまわりをガッチリ固めてある。
入り口には係員が常駐して出入りする人間をつねにチェックしていた。
すなわち瑠香の父親が働く国立遺伝子工学研究所である。特殊な殺し屋としての彼女が誕生したのはこの研究所であると言ってもいい。
係員は差し出したIDカードをチェックすると簡単に入れてくれた。
異常体質の彼女は定期的な検査を受けるため、あるいは緊急の事態に備えるために父からカードを渡されていた。今の大学を選んだのも研究所に近いという利便性のためだった。
父親の研究室は三階の奥にあった。
「瑠香か、さすがに早いな」
出迎えた本多博士は神経質な風貌の初老の男だった。目鼻立ちは整っているが、顔をしかめるくせがあり、そのため鼻がすこし曲がっていた。
「大学が近所だから……ところで今日は定期検査の日だった?」
「いや、しばらく出張することになったから検査を前倒しにしたんだ」
「出張なんて聞いてないけど」
「仕方ないだろ、急に決まったんだから」
言いながら本多博士は採血の準備をしていた。トレーの上に針とシリンジ、駆血帯やアルコール綿などを並べる。
「大学でなにか変わったことはないか?」
「別に……」
「おまえの体は特殊なんだから、どんな些細なことも父さんに話さなきゃだめだぞ」
「分かってる」
真一のことは父に話していなかった。彼女の唇を見ても性衝動が増大しない人間なんて、父にとっては格好の研究材料に違いない。
瑠香は採血されながら、あの日の真一の様子を思い出していた。
澤田とホテルに行ったことがバレて、クラスが異様な状態になった。すると真一は突然、教壇に立って支離滅裂な演説を始めた。
押しの強い澤田の印象が大きすぎて忘れていたが、そのときになってようやく真一も自分の素顔を見ていることを思い出したのだ。
そういえば、あれから一週間近くたっている。日増しに増大する性衝動にもだえ苦しんでいた違いない。このまま放っておいたら、最悪の場合、発狂するかもしれない。あの演説からも彼がおかしくなり始めているのが分かる。
そう思ったから、講義が終わったあと真一を待っていたのだ。それなのに……
「考え事でもしてるのか?」
父の言葉にハッとして顔を上げた。目の前に検尿用の紙コップが突き出されていた。
「ごめんなさい、すこし疲れているのかも」
「疲れてる? そりゃいかんな。しばらくベッドで休むか?」
「そんな大げさなものじゃないから」
瑠香は紙コップを取ってトイレに向かった。
あれから半月の間、それとなく真一を観察してみたが、特に変わった様子は見られない。ただ集中力がなくなっていて、講義中でもボンヤリしていることが多かった。頭に靄がかかっていると言っていたが、その状態はまだ続いているらしい。
つまり唇の誘引力は確かに効いていて、ただ性欲だけがその影響を受けず、人並みのままで止まっているのだ。
何のことはない、世間で言う恋わずらいと同じ症状である。
そういう結論に達したからこそ、彼を放置してきたのだ。
「検尿がすんだら毒素の採取だ」
トイレから出ると父が待ち構えたように声をかけた。
机の上に直径15センチのシャーレが置かれていた。中には低張化処理された特殊な液体が入っている。
この液体に唇を浸すと浸透圧により毒素が放出されるのだ。
これには三十分ほど時間がかかる。ずっと同じ姿勢でいなければならないから、放出後の疲労もあいまってかなり苦痛をともなう作業である。おまけに細胞内の水分まで一緒に放出されるので、終わった後は唇がひどく荒れる。
採取した後の溶液は遠心分離機にかけられ、純粋な毒素のみが抽出される。
「これで終わりだから、済んだら本当にベッドで休んでいくんだぞ」
顔を伏せてじっとしている娘に、本多博士は心配そうに声をかけた。
「この前みたいに仕事中に倒れてしまったら大変だからな。下手すると、わたしも研究を続けられなくなる。常に体調は万全に保っておかなくてはいけないよ」
このセリフで父の底が割れた、と思った。普段からくどいほど瑠香の体調を気遣う父だった。しかしそれは実験動物のコンディションを気遣うのと同じなのだ。実験に必要なら殺すこともためらわないモルモットと同じだ。
そうでなければ研究資金のために娘を組織に売るなどという真似ができるわけがない。瑠香は採取の苦痛に耐えながら、自分の心が急速に冷え込んでゆくのを感じた。




