10. 珍しいケース
講義が終わると瑠香はいつものように真っ先に教室を出た。その途端、いままで静まり返っていたクラスが急に騒然となった。
まだ帰り支度をしていた教授は何がおきたか分からずにキョトンとしている。
クラスメートの何人かが真一を取り囲んだ。
「さっきのは何だよ」
「何かに取り憑かれたような演説だったぞ」
「目つきもヤバかったし」
「おまえ大丈夫か? クスリでもやってんじゃないか」
口々に好き勝手なことをいう。
真一は何も答えられずに、ただクラスメートを見返すばかりだった。自分でも理解できないのだから、他人に説明できるわけがない。
「みんな、ちょっと待って」
河野が人垣に割り込むように入ってきた。
「こいつのさっきの話は本当だよ。おれもその場に居たんだから」
「高校時代の彼氏がどうしたとか言ってたな」
「そう、本多瑠香と高校好時代に付き合っていた男だ。昨日いっしょに飲んだんだよ」
「そんな都合のいい話、信じられるか」
「都合がよくても事実なんだから仕方ないだろ」
河野は二人の賭けの話から始めて、昨日の野村くんとのやり取りまですべて説明した。
「なるほど……だがな」
竹中という背の高い男が疑い深い目つきで河野を見た。
「それで彼女が死神でないと証明されたわけじゃないぜ。単にセックスが原因じゃないというだけだ。他の何らかの方法で澤田さんを殺したという疑いは残るだろ」
「そりゃ、そう言われればそうかも知れないけど……」
男性的で頼もしい風貌の竹中には河野も押されぎみである。
「それにさっきの真一の様子はなんだよ。普段とまったく違ってたじゃないか。まるで誰かに操られてたみたいだ。そして彼女がもういいと言ったらピタリと止めた」
「竹中、何が言いたいんだ」
真一はようやくこれだけ言えた。
「やっと喋ってくれたか。おれはいままで超自然現象というのは信じていなかったんだ。澤田さんが死んだというニュースを聞いても、その前に本多瑠香が澤田さんとラブホテルに行ったという話を聞いても信じなかった。ところがおまえの演説を聞いた途端、おれは信じる気になった。それくらいあの演説は異様だった」
竹中は河野を押しのけると、真一の胸ぐらをつかんで引き寄せた。
「正直に言ってくれ。あのときおまえの中でいったい何が起きてたんだ?」
「分からない」
「つまり自分でも分からないうちに喋っていたって事か?」
「だから分からないって言ってるだろ!」
竹中が手を離すと、真一は力が抜けたように椅子にすべり落ちた。
「どうだみんな、真一はわけも分からず誰かに操られていた。そして人を操る能力があるということは、そいつは念じただけで人を殺す能力も持っているかも知れない」
「じゃあヤッパリ本多瑠香は死神ってわけか」
河野はあっけにとらられた様子で竹中を見た。
「オカルトには詳しくないんだが、これは超能力とかのたぐいじゃないか?」
場の主導権をにぎった竹中は得意げに自説を語り始めた。
だが真一の耳には何も入ってこなかった。頭の中では、瑠香を信じたい思いと疑わしい思いが交錯して、わけが分からなくなっていた。
〇
すっかり日が暮れてしまった。
真一は校舎を出て、ひとりキャンパスを早足で歩いた。竹中のグループにさんざん引き止められたが、振り切るようにして教室を出たのだ。
とにかく静かな場所にいって頭を冷やしたかった。
ベンチに座っている瑠香が視界に入った瞬間、彼の背中に電流が走った。頭を冷やそうという考えは吹っ飛び、そのままふらふらと彼女に近付いていった。
瑠香はいつもの場所のいつものベンチにいつものように座っていた。ただ、いつもはメールチェックを済ませるとすぐに行ってしまうのに、今日に限ってこんな時間まで座っている。どうやら、ずっと校舎を見張っていたようだ。
「本多さん、さっきのことだけど……」
それ以上しゃべらせる隙を与えず、瑠香は彼の腕をつかんで強引に引っぱっていった。
語学の教室がある十五号館はキャンパスの隅にあり、すぐ横に大学の裏門があった。裏門前の通りには雀荘やビリヤード場、ゲームセンターが軒を連ねているので、日が暮れる頃にはそちらへ抜ける学生が増えてくる。
二人は手をつないだまま裏門を出て、原色のネオンが照らす通りを歩いた。
ガラの良くない場所なので、すれ違う学生もひげづらに小汚い格をしたベテラン風、あるいは咥えタバコに派手なシャツのチンピラ風が多かった。
「あれから一週間近くたってるわ」
「あれからって?」
不意に口を開いた瑠香の言葉が、とっさに飲み込めなかった。
「あなたがわたしの素顔を見てから」
「ああ……もうそんなになるのか」
瑠香は立ち止まると、不思議そうに彼の顔を覗き込んだ。
「小田くん、あなた何ともないの?」
「そういえば、あれからおかしな事ばかり起きてるような気がするな」
「わたしが言いたいのは、小田くんの内面的な変化よ」
「そうだ! あれ以来おれは頭に靄がかかってしまって、まともに物を考えられなくなったみたいなんだ」
「靄がかかった……まあいいわ、とにかく行きましょう」
二人は銭湯とコインランドリーにはさまれた路地に入った。
この一帯には小さな印刷所が何軒かあり、日が暮れた後でも機械音が響いていた。また安アパートも多く、全体的にむせ返るほどの昭和臭が漂っていた。
その路地を、瑠香は何のためらいもなく、勝手知ったる様子でどんどん奥に向かってゆく。
突き当りにはピンクの照明でライトアップされたラブホテルがあった。ごく自然な調子で真一をそこへ引っ張り込もうとする。
「ちょ、ちょっと待った!」
「どうしたの?」
「だってここ、ラブホテルだろ? 何でこんなところに入るんだよ」
「あなた、したくないの?」
「いや、いきなりラブホはおかしいだろ、どう考えても」
瑠香は困ったように眉を寄せた。しばらく真一を観察するような目で見ると、おもむろにマスクを取った。
「これでも何も感じない?」
真一は思わず息をのんだ。
この顔は過去に二回、しかもちらっとしか見ていない。にもかかわらず、まぶたに焼き付いて離れなかった。
そのまぶたの瑠香と寸分たがわぬ瑠香がそこにいた。彼はその唇に吸い寄せられるように顔を近付けた。
「だめ!」
瑠香はあわててマスクをつける。
「ごめん!」
真一は弾かれるように体を離した。恥ずかしさで顔が赤くなる。
「……白状すると、おれは本多さんが好きになったみたいだ」
彼はいまの行為をわびるような気持ちで、単刀直入に告白した。
「だったら……」
「いや、したくないといえば嘘になるけど、なにもこんな不自然な形でしなくたって良いじゃないか」
「あなた、性衝動は感じないの?」
「それがおかしいって言ってるんだよ、犬や猫じゃあるまいし。そりゃ、おれだって人並みに性欲はあるけどさ」
「つまり人並みしかないってわけね」
瑠香はホテルの外壁に背中をもたれかけ、じっと彼の顔を見つめた。何か考え込んでいるようだ。だが真一はかまわず喋りかけた。
「もちろん付き合ってほしいと思うけど、まだお互いをよく分かってないよね。だから今度の日曜に遊園地にでも行かないか? そのあと一緒に食事して、それが済んでから改めて答えを聞かせてほしい。もしOKだったらここに来よう」
「たしかに性衝動の増大はないみたい……これは非常に珍しいケースね」
「?」
「わかったわ、帰りましょう」
そう言うと、おもむろにもと来た道を戻り始めた。
「お、おい」
真一はあわてて追いかける。
「遊園地のお誘いは悪いけどお断りするわ」
「今度の日曜じゃなくても、空いてる日があったら」
「仕事が……いえ、バイトが忙しくて空いてる日はないから」
「そ、そうなんだ」
二人はふたたび裏門通りに出てきた。
「それじゃ、ここで別れましょう」
瑠香は困惑する真一を尻目に、そのまま後ろも見ずに立ち去った。彼女の足取りには何の迷いも感じられない。
真一は呆然とした表情でその後姿を見送った。
いつまでもその場に立ちつくす彼を、通りを歩く学生たちは胡散臭そうに眺めていた。
真一の視点を中心に描いた第一章はここまでです。
次回から瑠香の視点を中心とした第二章が始まります。




