第72話 勝利と安堵
その日の昼。
領主館の掲示板に、一枚の布告が張り出された。
『王立財務院による特別査察の終了に伴い、本日をもってルージュ豆、麦、その他指定品目の領外搬出制限を解除する』
最初に気づいたのは、市場帰りの男だった。
「……おい」
足を止め、布告を読む。
「おい! ちょっと来てくれ!」
その声に、一人、また一人と人が集まってくる。
「なんだ?」
「王都からだってよ」
「また何か止められるのか?」
一瞬、ざわめきが走った。ここしばらく、王都からの知らせに良い思い出などない。
だが、文字を読める商人が声に出して読み上げた瞬間——。
「……査察、終了」
「え?」
「搬出制限も……解除だ!」
静かになった。誰もがその意味を飲み込むまでに、少し時間がかかった。
「……じゃあ」
ベルクが、恐る恐る尋ねる。
「俺たちの麦……また外に出せるのか?」
「ああ!」
ハンスが声を張る。
「売れる! 王都にも、他領にも!」
「ルージュ豆も!?」
「出せるぞ!」
「…………」
ベルクは、その場で深く息を吐き出した。
「……よかったぁ……」
その一言を皮切りに、あちこちから安堵の声が漏れた。
「これでようやく出荷できる……」
「倉庫がいっぱいになりかけてたんだよ」
「うちもだ。収穫したって売れなきゃどうしようもねえ」
「商隊にも知らせろ! すぐに荷を組める!」
歓声というより、肩の重荷を下ろした安堵だった。
隣の者と肩を叩き合い、中には目元を押さえる者までいる。
ずっと、怖かったのだ。
今日の食事がなくなるわけではない。畑には作物があり、工房では物が作られ、市場も動いていた。
それでも、いつまで外へ売れないのか分からない状態が続けば、どうなるか誰にも分からなかった。
一枚の布告が、街を覆っていた見えない重石を取り払った。
「カイル様!」
誰かが、領庁の入口に立っていた僕を見つけた。一斉に視線が集まる。
「本当なんですよね!?」
「うん、本当だよ」
僕は大きく頷いた。
「査察は終わった。今日から、領外への出荷を再開していい」
「おお……!」
「ただし」
僕は少しだけ声を張った。
「一気に出荷すると、今度は荷車も倉庫も人手も足りなくなる。そこは順番に調整しよう」
「こんな時までそれかよ、領主様!」
誰かが笑った。
「あはは。最近、それで痛い目を見たばかりだからね」
どっと笑いが起こる。
ついこの間までなら、こんな冗談を言う余裕すらなかった。
「よーし! 帰って荷造りだ!」
「うちもだ!」
「商会に知らせてくる!」
人々が、それぞれの仕事へ散っていく。
その中で、ベルクがふと足を止めた。
「……カイル様」
「ん?」
「……ありがとうございます」
突然の言葉に、僕は足を止めた。
「俺たち、今年は本当に頑張ったんです。畑を耕して、麦を育てて……ようやく収穫できたと思ったら、今度は外に売れなくなって」
「…………」
「正直、どうなることかと思いました」
ベルクは、泥の染みついた自分の手を見下ろした。
「でも……無駄にならなくて、よかった」
その声が、わずかに震えていた。
「これで、家族にも安心して冬を迎えさせてやれます」
「……うん」
僕は頷いた。
「本当に、よかったね」
「はい!」
ベルクは照れくさそうに笑い、深々と頭を下げて仲間たちのもとへ駆けていった。
その背中を、僕は見送った。
さっきまで普通に話せていたのに、胸の奥が熱く焦げつくような感覚があった。
広場を見渡す。
荷車の準備を急ぐ商人。笑いながら工房へ戻っていく職人たち。仲間と肩を叩き合う農夫たち。
誰もが、自分の仕事へ戻ろうとしている。
王都から搬出制限が通達されたとき、頭にあったのは計算と数字だった。
倉庫の空き容量。保管期限。商人への支払い。賃金。
何を優先し、何を捨てるべきか。考え続けてきた。
けれど、その数字の向こう側には、泥にまみれて土を耕す人がいた。朝早くから汗を流し、家族のために明日を繋ごうとする営みがあった。
(……守れたんだ)
そっと拳を握りしめる。
自分一人の力じゃない。皆が畑を耕し、工房を動かし、不格好な引換券を信じて流通を支えてくれた。
泥臭く積み重ねてきた時間が、誰にも奪われずに済んだのだ。
「……カイル様?」
隣から、静かな声が聞こえた。
「……ああ、ごめん」
僕は目元を袖で拭った。
「なんだか、急に力が抜けちゃって」
リーザはそれ以上何も聞かず、そっと僕の手に自分の手を重ねた。
「……皆さん、本当に嬉しそうですわね」
「……うん」
僕は広場を見つめ直した。
「今年は……たくさん作ったからね」
麦も、ルージュ豆も、新しく漉き始めた紙も。
止まっていた血流が巡るように、外の世界へ繋がる道が、いま戻ってきた。
「……さあ、止まってた分まで、働かなくちゃね」
「……カイル様」
「うん?」
「まずは、お休みくださいませ」
「…………はい」
食い気味の返答に、僕は苦笑した。
「本当に顔色がお悪いですわ。セムラもわたくしも、カイル様が倒れられたら気が気ではありません」
「う……」
リーザのまっすぐな視線に、僕は参ったように首を横に振った。
「分かったよ。……今日のところは休むことにする」
「少しだけ、ではありませんからね」
「……はい」
返事の早さに、リーザがくすりと笑った。
見上げた青空は、どこまでも高く澄み渡っている。
石畳を転がる車輪の音。誰かを呼ぶ威勢のいい声。
泥臭く、不格好で、けれど愛おしいノルデンの日常が、そこにあった。
胸の内で静かに呟く。
(……これからも、守っていこう)
この街を。
泥にまみれて働く人々の暮らしを。
明日も当たり前に笑い合える日々を。
温かな秋風を受けながら、僕は静かに目を閉じた。
ここまでありがとうございます!「カイル頑張ったね!」と感じていただけたら……ブクマや☆があると執筆のモチベーションにつながります(^^)




