第70話 ヴェルナーの報告書
王都・王立財務院。
ガルシアのもとに、ノルデンから一通の報告書が届いた。
差出人は、彼自身が送り込んだ特別査察官、ヴェルナー。
『ノルデン領における特別財務査察・最終報告』
ガルシアは冷ややかな手つきで羊皮紙の封を解いた。
だが、書き連ねられた整然たる文字を追い進めるにつれ、眼鏡の奥から感情が削ぎ落とされていく。
一、税の滞納、および帳簿の虚偽記載——無。増額分を含め、全額期日内に納付済み。
一、ルージュ豆および麦の領外搬出における不正取引——無。
一、領内において流通する『引換券』について——王国貨幣の模倣には該当せず。領内限定、領主印、通し番号、発行記録および交換準備を確認。現時点において、当該引換券を原因とする重大な混乱は認められず、領内取引は継続している。
不正の証拠は、どこにもなかった。
そればかりか、末尾には財務官としてのヴェルナーの、あまりにも客観的な結論が記されていた。
『以上の通り、ノルデン領の財政および流通において、何ら法的な違反は見出せない。
——本官は、当該査察を継続する財務上の合理的理由を確認できない』
「……ヴェルナー」
羊皮紙を持つガルシアの指に、わずかに力が入った。
抗議でも私情でもない。ただ国家の法と数字を精査し、「査察を続ける理由がない」と結論づけた報告書。
(手抜かりなく、忖度もなく……完璧に仕事をこなしたな、ヴェルナー)
ガルシアは自嘲気味に目を細めた。
そもそも、彼女に不正の捏造など期待していなかった。
重い増税と搬出制限。
出ていく金は増える一方、外から入る金は断たれる。いかに立て直しつつある領地とはいえ、いつまでも耐えられるはずがない。
やがて資金繰りに窮し、納税が滞る。
その事実を、誰よりも公正な査察官に証明させる。誰にも異議を唱えさせないために、ヴェルナーを選んだのだ。
だが——。
ノルデンは、破綻しなかった。
それどころか領内に独自の引換券を流通させ、商いを維持し、跳ね上がった税負担まで納めてみせた。
(あの若造め……!)
ガルシアは報告書を見下ろした。
自ら用意した『正当性』という罠によって、自らの手足が縛られている。
これ以上、査察を続ける理由はない。少なくとも、財務上は。
◇
「……なるほど。不正はなかったのだな?」
財務院の最高会議室。
地方領地の監察権限を持つ内務省と、国の財政を握る財務院。その重鎮たちが一堂に会していた。
会議の上座に座るのは、王立財務院の最高責任者、ヴィクトル・フォン・ライゼン財務総監。
五十代後半の、威厳ある男だ。穏やかな物腰とは裏腹に、財政に関しては一切の妥協を許さないことで知られている。
提出された報告書を目にしたヴィクトルは、満足そうに深く頷いた。
「はい。増額された税を含め、全額期日内に納付されております」
「改定された税額まで完納したか」
ヴィクトルが感心したように報告書をめくる。
「赴任当初のノルデンは、前領主の急逝で混乱が深まり、税の減免なしには立ち行かぬ死に体だったと記憶しているが」
「そのはずです」
「それが今では、減免期間を終え、増額された税まで完納。領外搬出を止められても大きな混乱を起こさず、領内の取引を維持した、と」
そこで、内務省地方行政局長のオスカー・ベルンハルトが、感嘆の息を漏らした。
四十代後半の、几帳面そうな男だ。地方行政の実務に長く携わり、各領地の財政事情にも明るい。
「……破格の快挙ではありませんか。地方行政を担う者として、これほど喜ばしい報告はありません」
「私も同感だ。少なくとも、これ以上商いを止める理由はあるまい」
ヴィクトルが重々しく頷いた。
「財務院としても、査察終了に異存はない。搬出制限の解除についても、異議はない」
「……承知いたしました」
ガルシアは静かに頭を下げた。
「では、ノルデン領に対する特別査察を終了し、搬出制限を解除することといたしましょう。ヴェルナーの報告にも、問題は認められませんでしたから」
「うむ。それが妥当だろう」
「ただ——」
ガルシアは手元の報告書へ視線を落とした。
「あれほど疲弊していた領地が、わずかな期間でここまで発展したのです。今後、どのような産品が、どれほど市場に出回るのか。しばらくは動向を見ておく必要があるでしょう」
「……ふむ。確かにな」
ヴィクトルが顎に手を当てる。
「急激な発展だけに、今後の推移は気になるところだ」
「はい。無論、現時点で新たな制限を設ける理由はありません。通常の商取引は認めたうえで、各地から届く報告に目を通す。それで十分かと」
「なるほど。ノルデンの出荷量が増えれば、周辺領地の市場にも影響が出るかもしれませんからな」
オスカーが頷いた。
「地方行政局としても、各領地からの報告には注意を払っておきましょう」
「よかろう。王国全体の流通を把握することも、我々の務めだからな」
ヴィクトルの言葉に、ガルシアは恭しく一礼した。
「ご理解いただき、感謝いたします」
そして、淡々と言葉を結んだ。
「まずは、見守ることといたしましょう」
その声には、何の感情も滲んでいなかった。
「……そういえば、ガルシア尚書」
「はい」
ガルシアは一切の動揺を見せず、いつもの静謐な面持ちで応答した。
「カイル殿を、あの大混乱のノルデンへ赴任させたのは君だったな?」
「……はい」
「ふむ」
ヴィクトルは、心から感心したように頷いた。
「いや、正直に言えばな。君があの少年をノルデンの領主に、と強く希望したときは、血迷ったかと思ったものだ」
会議室に、小さな笑いが起こった。
「何しろ、当時はまだ十六だ。そんな若者に、あの疲弊した領地を任せるとは……無謀にもほどがあると思ったよ」
「…………」
「だが、どうだ。この結果は」
ヴィクトルは、手元の報告書を軽く叩いた。
「君の人を見る目は、実に確かだったようだな。誰もが見向きもしなかった若者の才を見抜き、見事に領地を再建させてみせた。さすがは内務省を率いる男だ」
「…………恐縮です」
ガルシアは、恭しく深く頭を下げた。
その瞬間。
足元の床が、音もなく崩れ落ちていくような感覚に襲われた。
視線の先にある高級な絨毯。その複雑な模様が、底なしの泥沼のように暗く沈んで見える。
(……人を見る目、か)
笑わせる。あの青年が、ただの無能ではないことなど、最初から分かっていた。
誰もが【魔石生成】という能力を笑った。
一日に、たった一個。
だが、自分が注目したのは『一個』ではない。
『一日』だ。
あの力が持つ異質さに気づいていた。だからこそ——。
(……王都から遠ざけたのだ)
何をしでかすか分からない。
既存の秩序にどのような影響を及ぼすかも分からない存在を、王都の中枢に置いておくわけにはいかなかった。
最果ての衰退した領地。そこでなら、いずれ行き詰まる。
土地も人も金もなければ、どれほど奇妙な力を持っていようと何もできまい。そう判断した。
それなのに。
カイル・フォン・ヴァルハイトが成果を上げるたび、自分の判断が『英断』として称賛されていく。
……誰も知らない。
その称賛が、ガルシアにとってどれほどの屈辱であるかを。
(……あの男は、私に牙すら剥いていない)
カイルは王都に恨み言一つ寄越さなかった。
ただ、泥にまみれて土を耕し、仕事を作り、領民の給料を払い、法を守り、信用を積み重ねた。
それだけだ。
それだけで、自分の仕掛けた策をことごとく退けてしまった。
(……このままでは)
胸の奥が、ひやりと冷えた。
(このままでは、私は……自らの過ちを認めることに——)
そこまで考えた瞬間。
(……いや、ありえない)
ガルシアの右手が、ゆっくりと握り込まれた。
(そんなことが、あってはならない……!)
爪が掌に食い込む。鈍い痛みが走っても、拳は緩まなかった。
これまで、幾度となく切り捨ててきた。
利益を生まぬ事業。
立て直す見込みのない領地。
国庫を食いつぶすだけの施策。
情に流されず、数字を見て、国のために判断を下してきた。
それが自分の仕事だった。それが、正しいと信じてきた。
だというのに。
もし、あの青年のやり方が正しいのなら。
切り捨てたものの中にも、まだ価値があったのだとしたら——。
(……認められるものか)
ガルシアは奥歯を噛みしめた。
あの青年一人を認めることでは済まない。
(私は……間違ってなどいない)
握りしめた拳を、ゆっくりと解いた。
掌には、爪の痕がくっきりと残っていた。
深く下げていた頭を上げる。
そこには、いつもの完璧で温厚な「内務尚書」の笑みが貼りついていた。
「——では、私からノルデン領へ査察終了と搬出制限解除の正式な通達を出しておきましょう」
一切の隙もない、完璧な官僚の顔。
居並ぶ高官たちが納得の笑みを浮かべ、会議室が和やかな雰囲気に包まれる。
……だが。
会議室の壁際。
影の落ちる柱の傍らで、その光景を静かに眺めている男が一人いた。
糸のように細い目を柔らかな笑みの形にして、退屈そうに書類を弄んでいた男。
ゼドリック。
(……へえ)
書類をめくる指が、ぴたりと止まった。
ガルシアが頭を下げた、ほんの一瞬。
その右手が、ひどく強く握り込まれたのを見た。
そして顔を上げたときには、何事もなかったかのように微笑んでいる。
(……おかしいねぇ)
ゼドリックは笑みを崩さない。
(あのガルシアが、褒められて喜ばないなんて)
彼はガルシアを知っていた。
かつて、同じ王都で官僚としての道を歩み始めた頃から。
誰よりも数字に厳しく、情に流されず、結果を重んじる男、ガルシア。
その彼が、自ら抜擢した若者の成功を喜ばない。むしろ——。
(……何をそんなに恐れているんだい?)
ふっ、と。
普段は薄笑いの奥に隠されているゼドリックの瞼が、ほんの数ミリだけ持ち上がった。
隙間から覗いた瞳には、先ほどまでの人懐こい笑みなど、欠片も残っていなかった。
(カイル・フォン・ヴァルハイトか……)
ゼドリックは、その名を胸の内で転がした。
(君は、いったい……何をしたんだい?)
次の瞬間には、いつもの柔らかく軽薄な糸目へと戻っていた。
誰一人、その変化には気づかない。
そして、ガルシアもまた、自分の小さな綻びを見抜いた男がいたことなど、知る由もなかった。




