第69話 ヴェルナーの最終確認
ノルデン領主館。
特別査察が始まってから、幾日かが過ぎていた。
終了期限の定められていない査察。
しかし、帳簿の照合も、納税記録の確認も、すでに一通り終わっている。
残るは、領内で流通する引換券についての最終確認だけだった。
執務室の机には、分厚い帳簿が何冊も積み重ねられていた。
その一冊を閉じたヴェルナーは、向かいに座るカイルへ静かに視線を向けた。
「……納税記録、領内の取引記録、引換券の発行台帳。いずれも確認しました」
「はい、ヴェルナーさん」
「増額された税も、期日内に全額納付されています。帳簿の不一致も、今のところ見当たりません」
ヴェルナーは淡々と告げた。
だが、その手はまだ最後の一冊から離れていない。
「しかし、カイル殿。一点、確認しておきたいことがあります」
「何でしょう?」
「この引換券についてです」
ヴェルナーは机の上に、一枚の紙を置いた。
領主印と通し番号が記された、ノルデン領内で流通する引換券。
「領民はこれを使って商品を買い、商人は代金として受け取っている。つまり、事実上の決済手段として機能していますね」
「はい。ただし、王国の貨幣として発行しているわけではありません。領内での使用を前提とした、銀貨との引換券です」
「承知しています。王国貨幣を模倣した形跡もありません」
ヴェルナーは一度頷いた。
「ですが、問題はそこではありません。カイル殿」
細い指が、引換券の通し番号をなぞる。
「仮に、これを持つ領民や商人が、一斉に銀貨との交換を求めた場合はどうなりますか?」
執務室に、短い沈黙が落ちた。
カイルは目を逸らさずに答えた。
「……交換の請求が準備額を超えれば、応じられなくなります」
「その危険性は認識しているのですね」
「はい」
あっさりと認めたカイルに、ヴェルナーの眉がわずかに動いた。
「では、なぜ発行を続けているのですか?」
「領内の商いを止めないためです」
カイルは机の上の帳簿を開いた。
「搬出制限によって、領外から入る銀貨が減りました。一方で、税の納付には銀貨が必要です。これまでどおり領内の取引にも銀貨を使い続ければ、手元の銀貨が不足し、仕事があっても賃金を払えなくなるおそれがありました」
「それを、引換券で補ったと」
「はい。ただし、無制限に発行していいわけではありません」
カイルは別の台帳を差し出した。
「こちらが発行残高と交換準備の記録です。新たに発行するたびに残高を更新し、交換に備えた銀貨を別に管理しています。発行残高が交換準備を超えないことを、毎日確認しています」
ヴェルナーは台帳に目を落とした。
発行した日付、通し番号、額面。
交換によって回収された引換券も、別の欄に記録されている。
「……確かに、帳簿上は発行残高に見合う準備が確保されています」
「……あーっ! 難しいぜ!」
突然、部屋の隅から声が上がった。
護衛として扉のそばに控えていたジークが、頭をがしがしと掻いている。
「つまりだ! ちゃんと数の管理はしてるし、いっぱい作りすぎてもいねえ! それで合ってるか、カイル!?」
カイルは思わず笑みをこぼした。
「うん。大体そんな感じだよ、ジーク」
「だったら最初からそう言ってくれよ! 難しい言葉ばっかりで、頭が痛くなってきたぜ……」
「……ジーク殿」
ヴェルナーが静かに口を開いた。
「今のお話は、領民の財産に関わる重要な確認ですよ」
「わ、分かってるって! だから必死に聞いてたんだろ!」
ジークは慌てて背筋を伸ばした。
ヴェルナーは一瞬だけ彼を見つめ、それからカイルへ視線を戻した。
「……では、もう一点。帳簿の数字が正しくとも、引換券を持つ者が一斉に交換を求めた場合、窓口で混乱が生じる可能性がありますね、カイル殿」
「はい。そこも注意しているところです。銀貨を用意するだけでは、十分じゃありませんから」
カイルは頷いた。
「どういう意味ですか?」
「帳簿に銀貨があることと、交換を求める人が安心してくれることは、別だからです」
「……なるほど」
「例えば、誰かが『もう銀貨に換えてもらえないらしい』と言い始めたら、どうなると思いますか、ヴェルナーさん」
「……不安になった者が、先を争って交換を求めるでしょうね」
「はい。たとえ準備が足りていても、一度に大勢が押し寄せれば、窓口は混乱します。そこで対応を誤れば、本当に信用を失ってしまう」
カイルは静かに続けた。
「だから、発行量だけでなく、交換の記録も公開できるようにしています。引換券を持っている人には、定めた条件で銀貨と交換する権利がある。その約束を、領主である僕自身が守らなければなりません」
ヴェルナーはしばらく黙っていた。
やがて、別の帳簿を開く。
「……では、交換準備に不足が生じた場合は?」
「新たな発行を止めます。まずは不足の原因を調べ、領の支出を見直します」
「領民への支払いを止めるのですか?」
「それは、できる限り避けたいです」
カイルは首を横に振った。
「引換券を増やせば、一時的には支払えるかもしれません。でも、交換できる見込みのない紙を渡すことになれば、働いてくれた人たちを裏切ることになります」
「……なるほど」
「それなら、事業の進め方を調整するべきです。必要な仕事を見極めて、無理に支出を増やさない。少なくとも、支払う約束だけを積み上げるようなことはしたくありません」
ヴェルナーは手元の引換券を見つめた。
「カイル殿。あなたは、この仕組みが失敗する可能性を認めるのですね」
「もちろんです」
カイルは即答した。
「失敗する可能性があるから、毎日数字を確認しています」
「…………」
「危険がないと思い込んだときが、一番危ないですから」
ヴェルナーは何も答えなかった。
ただ、もう一度帳簿を開き、発行残高と交換準備の数字を照合する。
そして、ゆっくりと帳簿を閉じた。
「……分かりました」
彼女は机の上の書類を整えた。
「現時点で、発行記録に不審な点はありません。交換準備についても、提出された記録と現物の確認結果に矛盾は認められません」
「ありがとうございます」
「ただし」
ヴェルナーは、きっぱりと言葉を継いだ。
「この引換券が、将来にわたって安全であると保証するものではありません」
「はい。それは承知しています」
「私が確認したのは、あくまで現在の運用状況と、法令への適合性です」
カイルは静かに頷いた。
ヴェルナーは新しい羊皮紙を取り出し、羽根ペンを手に取った。
「……カイル殿。最後に、一つだけ」
「はい?」
「あなたは、なぜそこまでして、この仕組みを維持しようとするのですか?」
カイルは少しだけ考えた。
そして、窓の外へ視線を向けた。
通りでは、荷車を押す男たちが声を掛け合っている。
工房の前では、出来上がった品を受け取る商人の姿が見えた。
「……あの人たちには、仕事があります」
カイルは答えた。
「畑で作物を育てる人。工房で品物を作る人。それを運んで、売る人」
「ええ」
「みんな、働いているんです。それなのに、銀貨や金貨が足りないというだけで、その仕事が止まってしまうのは……もったいないと思いました」
ヴェルナーは、窓の外へ目を向けた。
「……なるほど」
短く答え、再び机へ向き直る。
「ですが、その思いだけでは、財務上の問題は解決しません」
「はい。ですから、ヴェルナーさんに数字で確かめていただきました」
その答えに、ヴェルナーのペン先が一瞬だけ止まった。
やがて彼女は、何事もなかったかのように書類へ向き直った。
「……では、最終報告書を作成します」
さらさらと、羽根ペンの音が響く。
税の滞納なし。
帳簿の虚偽記載なし。
王国貨幣の偽造なし。
引換券の発行および交換準備について、現時点で重大な違反は認められない。
そして、最後の一文。
『本官は、当該査察を継続する財務上の合理的理由を確認できない』
ヴェルナーは筆を置いた。
署名を記し、書類を封筒に収める。
「……これが、私の調査結果です」
カイルは深く頭を下げた。
「ありがとうございました、ヴェルナー査察官」
「礼には及びません。私は、確認した事実を報告するだけです」
彼女は静かに立ち上がった。
「なお、査察の終了と搬出制限の解除は、王都で正式に決定されるまで確定しません。現時点では、従来の制限に従ってください」
「はい。承知しています」
「それでは、失礼いたします」
ヴェルナーは一礼し、執務室を後にした。
残されたカイルは、机の上に置かれた一枚の引換券を手に取った。
薄い紙。それ自体に、大した価値があるわけではない。
けれど。
(……これを受け取ってくれる人たちがいる)
その事実を、忘れてはならない。
カイルは引換券をそっと机に戻した。
ノルデンの商いは、今日も続いている。
◇
数日後。
王都・王立財務院。
ガルシアのもとに、ノルデンから一通の報告書が届いた。
差出人は、彼自身がその厳格さを買って送り込んだ特別査察官、ヴェルナー。
『ノルデン領における特別財務査察・最終報告』
ガルシアは、羊皮紙の封を解いた。




