第68話 信用の積み重ね
不安の伝播。リーザが蒼白な顔でカイルの袖を掴む。
「カイル様……! このまま全員に押し寄せられたら、領主館の金庫が……!」
「……交換してあげて」
「よろしいのですか!?」
驚くセムラに、カイルははっきりと告げた。
「ここで拒んだら、それこそこの紙はただの紙切れになる。『本当に換金できた』という実績を作るんだ」
窓口が開けられ、並んだ領民たちに順次、本物の硬貨が払い出されていく。
金庫の硬貨は目に見えて減っていった。カイルの額にも冷や汗が伝う。
(まずいな……予想より多い……)
だが、カイルは揺らがなかった。
カイル自身が市場で買い物を続け、領庁での税の支払いにも引換券を認め、領主館の買い出しでも引換券を徹底して使い続けた。
◇
三日目あたりから変化が起き始めた。
給与で紙を受け取った大工が、パン屋で紙を使う。
パン屋はその紙で、農家から麦を買い付ける。
農家はその紙を持って市場で服を買う。
「……あれ? わざわざ領主館へ行って硬貨に換えなくても、このまま使えるじゃないか」
誰かが呟いたその一言が、街に広がっていく。
「いつでも金に換えられる」という確信が持てた時、人はわざわざ金に換える手間をかけず、紙のまま使い始めるのだ。
領庁の交換窓口に並ぶ列は、いつしか完全に消えていた
その光景を、領庁の窓から見下ろしている人物がいる。
『特別査察官』ヴェルナーである。
「……硬貨が、ないのに」
ヴェルナーは窓の下の市場を見つめていた。
パン屋から渡された一枚の引換券が、今度は野菜売りの手へ渡っていく。
「どうして……取引が続いているの?」
あり得ない。
財務院が止めたのは、ノルデンから出ていく商品だけではない。新たな硬貨が流れ込む道そのものだった。
「……この人は、硬貨がないのなら……硬貨を必要としない仕組みを作ったというの……?」
ヴェルナーの指先が、窓枠の木目を強く握りしめ、わずかに震えた。
「カイル・フォン・ノルデン……」
蛇の目と呼ばれた女は、初めて理解した。
自分たちが査察している相手は、ただ領地経営が上手い少年ではない。
「……あなた、いったい何者なの……?」
夜。執務室で一人書類を整理していたカイルのもとへ、リーザがあたたかいスープを持って入ってきた。
「お疲れ様です、カイル様」
「ありがとう、リーザ。……なんとか、踏みとどまれたよ」
カイルは安堵の息を吐き、机の上に置かれた木製のペンをそっと撫でた。
「君がくれたこのペンで書いた構想が、ノルデンを救ってくれた」
「ふふ。でも本当のお手柄は、カイル様が積み重ねてきた『信用』ですよ」
リーザは優しく微笑み、カイルの肩に手を置いた。
「みんな、カイル様を信じているから、あの紙を渡せたんです」
「……そうだね。……でも、これはまだ時間稼ぎだ」
カイルは窓の外、静かに灯りがともるノルデンの街並みを見つめた。
(魔石という現物の価値に頼る世界で……僕たちは今、小さな『信用』の通貨を生み出したんだ)




