第9話 黄金のパンと、王都の焦燥
輪作の導入により、ノルデンの畑は劇的な進化を遂げた。
ルージュ豆が窒素を蓄え、シロカブが深い土を耕し、土地は枯れるどころか日増しに生命力を増していく。
そして数ヶ月後——。
改良された最高の土壌は、ついに主食である『小麦』の劇的な豊作をもたらした。
「カイル様! 見てください、この小麦! 粒が大きく詰まっていて、最高の小麦粉が挽けそうです!」
「ふむふむ、素晴らしいね!」
「そしてシロカブから抽出した汁を煮詰めたら……本当に真っ白で甘い『砂糖』が作れましたわ……!」
「ありがとう、リーザ! 君のおかげだ!」
「きゃっ……!」
思わず抱きしめると、リーザの顔が真っ赤になった。僕も慌てて手を離す。
いよいよ、領主館の厨房に素材が揃った。
挽きたての白い小麦粉、輝く純白の砂糖、そしてツヤツヤに煮詰められた『ルージュ餡』。
(素材は……すべて揃った!!)
発酵させたふわふわのパン生地で甘いルージュ餡を包み込み、窯の中へ投入する。
数分後——香ばしい小麦の香りと、濃厚で甘い香りが厨房全体に充満した。
こんがりと黄金色に焼き上がった、丸いパン。
ノルデンにおける【あんぱん1号】の完成である。
「う、うまああああああいッ!!!」
ふわふわの生地からあふれ出す、ルージュ餡の滑らかな舌触りとガツンとした濃厚な甘み! 獲れたての極上素材を使った分、前世で愛した味以上の逸品だ。
集まった領民たちも、おそるおそる口へと運ぶ。
「な、なんだこの甘い食べ物は……!?」
「美味い! 生地がふわふわしていて、噛むたびに小麦のウマさが広がる!」
「うおおお! 美味すぎるぞ、これ!!」
歓喜が厨房を揺らす。
この『あんぱん』を知ってもらうための『ルージュ・クッキー』の試食・販売も軌道に乗り始め、ノルデンはいよいよ本格的な経済的飛躍のスタートラインに立とうとしていた。
◇
一方その頃、王都——内務省高官室。
豪奢な執務机の前で、ガルシア子爵は眉間に深いシワを寄せていた。
目の前に置かれた一枚の報告書を、穴があくほど見つめている。
「……全滅するはずだったノルデンの畑で、作物の収穫量が爆発的に跳ね上がっている……だと?」
「は、はい……! ルージュ豆だけでなく、なんと主食である小麦の収穫量まで前年の数倍に達していると……!」
報告に訪れた伝令官の声が震えていた。
「バカな……あそこは冷害で、まともに作物が育たない枯れた土地のはずだ……!」
ガルシアの手からワイングラスが滑り落ち、高級絨毯の上に赤黒いシミを作った。だが、彼はグラスに目をやる余裕すらなく、報告書を握りしめた。
ガルシアは、ノルデンを知らないわけではなかった。
むしろ、嫌というほど知っていたのだ。
前領主からは何度も陳情書が届いていた。
『水路を修繕したい』
『農地を改良したい』
『職人を派遣してほしい』
『せめて、あと少しだけ援助を——』
そのすべてに目を通し、そのすべてを、ガルシアは己の意志で退けた。
情がなかったからではない。
国家の預かる『金』が有限だったからだ。
(ノルデンへ金を注ぎ込むくらいなら、他に回すべき場所がある)
王都の街道整備。成長を続ける工業都市。収穫量の多い穀倉地帯。
同じ金貨一万枚を使うなら、より多くの民を豊かにできる場所へ使う。
それが国家を預かる財務官僚としての仕事だと、ガルシアは信じていた。
だからノルデンを切った。
金を投じても救えない、投資価値のない土地だと判断したからだ。
危険な知識を持つカイルをノルデンへ追放したのも、彼にとっては冷徹な合理性に基づいていた。
国家経営上、すでに切り捨てた暗黒の地。そこへ送れば中央から隔離でき、構造的貧困が彼を押し潰す。もし万が一にも持ち直せば、捨てた領地が国益を生むだけだ。
——そのはずだった。
「……まさか」
報告書を握る指が、小刻みに震える。
「あのノルデンを……立て直し始めている、だと?」
ありえない。
金を投じても救えないと切り捨てた土地だ。
自分は数字を見た。前領主の計画も読んだ。何度計算しても、同じ結論になった。
『投資する価値がない』
だから——。
「…………見誤った?」
喉から、掠れた声が漏れた。
「この私が……予算の配分を見誤ったというのか……!?」
あいつは、自分が「価値がない」と切り捨てた土地から、国が計算に入れていなかった新しい『価値』を生み出し始めている。
――認められない。
一度の豊作だ。偶然かもしれない。 それだけで、自分の判断が誤りだったことにはならない。
ならない、はずなのに。
報告書を握る指から、震えだけが消えてくれなかった。
「……カイル・フォン・ヴァルハイト」
ガルシアは、その名を初めて明確な警戒とともに口にした。




