第66話 法が想定していないもの
「……はぁ!? カイル様、正気ですか!?」
夜遅く領主館に呼び出されたクロウは、カイルから渡された図面を見るなり、目を丸くして叫んだ。
「金を刷る……いや、金と引き換える『紙』を印刷するだって!? そんなもん、偽造されたら終わりですよ!」
「だから、君の腕が必要なんだ、クロウ」
「腕だなんだって次元じゃありませんよ! 紙なんて、似たようなものを用意して似たような絵を描かれたら、素人には見分けがつきません!」
「紙だけじゃ駄目だ。だが、クロウにしか彫れない細かさの木版ならどうだ?」
「……っ」
クロウは言葉を詰まらせたが、すぐに頭を振った。
「それでも、版そのものを盗まれたり、時間をかけて模倣されたら終わりです」
「なら、印刷した上に僕の『領主印』を特殊な朱肉で捺印する」
「もしその紙が一枚、外に抜かれたら? 偽造屋がそれを元に何百枚も写しを作ったらどうするんです!?」
「……番号を振る」
「番号?」
「一枚ずつ違う数字を刻むんだ。通し番号だよ。同じ番号の券が二枚出たら、どちらかが偽物だとすぐに分かる」
「一枚ずつ……番号を変える……!?」
「さらに、これは『ノルデン領内限定』とする。領外へ持ち出しても使えない。偽造する手間とリスクをできる限り大きくするんだ」
クロウが呆れたように頭を掻く。
その横で、ずっと話を聞いていたジークが眉をひそめた。
「なあ、カイル」
「なんだい?」
「んなもん勝手に作って……その、法律だかなんだかは大丈夫なのかよ?」
思わず僕は目を瞬いた。
「……意外だな。ジークから法律の心配をされるとは思わなかった」
「うるせえ! 俺だってそれくらい考えるわ!」
ジークが耳を赤くする。
「だってよ。金貨の代わりになる紙を領主が勝手に作るんだろ? 王都の連中に『偽金を作った!』とか言われたら、それこそ奴らの思う壺じゃねえか」
「大丈夫さ。確認した」
「……確認した?」
「昨夜、王国法と領地法を一通り調べたよ」
僕は机の端に積んであった分厚い法令集を軽く叩いた。
「王国法で厳しく禁じられているのは、王国貨幣の偽造や、許可のない金貨や銀貨の鋳造だ」
「……じゃあ、これは?」
ジークが試作品の紙切れを指先でつまみ上げる。
「紙だね」
「いや、そうじゃなくてよ!」
「ははは。分かってるよ」
僕は笑ってから、法令集を閉じた。
「これは王国貨幣じゃない。ノルデンが後で金貨や銀貨と交換すると約束する、領内限定の『引換券』だ。王国の金貨や銀貨を名乗るつもりもない」
「……そんなもん、法律に書いてあんのか?」
「ないよ」
「はぁ!?」
「禁止する法律もない」
「なんでだよ!」
「そりゃあ——」
僕は出来上がったばかりの一枚を摘まみ上げた。
「この国では、金貨が金なのが当たり前だったからさ」
「…………」
「紙切れを金貨の代わりに使おうなんて人間が現れること自体、想定されていなかったんだよ」
ジークがぽかんとする。
「……そんなの、アリなのか?」
「少なくとも、禁止する法律はなかった。だが、だからこそ好き勝手にやっていいわけじゃない」
僕は机に置かれた一枚の試作品へ目を落とした。
「王国貨幣とはっきり区別する。領外では使えないことも明記する。発行した枚数もすべて記録する。そして、約束どおり交換する」
「法律に書いてねえから何やってもいい、じゃねえんだな」
「もちろん」
脳裏に、あの力強く土を耕すベルクたちの顔が浮かぶ。
「法律にないからこそ、僕たち自身が『信用』を守らなくちゃいけないんだ」
「……へっ。相変わらずへ理屈が得意な領主様だぜ。だが、言いたいことは分かった」
ジークがニッと笑う。
「ただし領主様。これだけの券を作るとなりゃ、紙の量も馬鹿になりませんぜ」
クロウが腕を組みながら言った。
「それなら問題ないよ」
僕は答えながら、窓の向こうへ目をやった。
「紙工房の増築はもう終わっている。職人も増えたし、グラスハルト草の繊維を使ったノルデン紙なら必要な量を用意できる」
「……そういや、あの工房がありましたね」
「うん」
かつては畑を荒らすだけだった雑草。
それを紙に変え、工房を作り、人を雇った。
あのときは、まさかその紙が領地そのものを救うことになるなんて思いもしなかった。
(……一つも、無駄じゃなかったんだ)
僕たちがノルデンで一つずつ積み上げてきたものが、今、次の一手を打つための力になっている。
「それとクロウ。もう一つ頼みたい」
「まだあるんですかい!?」
「小さな『証紙』を作りたい。細かな模様を刷り込んだものを一枚ずつ券に貼って、その境目を跨ぐように本物の領主印を捺す」
「……ほう」
クロウが図面を引き寄せた。
「証紙だけ剥がして別の券に貼ろうとしても、印影が途切れる。領主印まで真似できなきゃ使い回せねえってわけですか」
「そういうことだ」
「木版、ノルデン紙、証紙、領主印。それに一枚ずつ違う通し番号……」
クロウは指を折りながら呟いた。
「なるほどな。どれか一つを真似するだけじゃ足りねえ。全部揃えて、ようやく本物らしいものになる」
「うん。絶対に偽造できないものなんて作れないよ」
「…………」
「だから、偽造するくらいなら割に合わないと思わせる」
クロウの眉がぴくりと動いた。
「……領主様」
「なに?」
「あんた、たまに怖えこと考えますね」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
「褒めてませんよ」
ジークが横から試作品をひらひらさせる。
「でもよ。そこまで細工するなら、作るのに何週間もかかるんじゃねえのか?」
「…………」
カイルは黙った。
それこそが問題だった。次の賃金支払日まで、もう時間がない。
「クロウ」
「はい」
「……何日かかる?」
クロウは答えなかった。
図面を睨み、指先で寸法を測る。
「この城の絵はいらねえな」
「え?」
「こっちの飾り枠も削る。領主様、見栄えのいいもんが欲しいですか。それとも、使えるもんが欲しいですか」
「使えるものだ」
即答した。
「なら話は早え」
クロウは図面の装飾を炭で次々と消していく。
「本券の主版は俺が彫る。枠と文字は弟子に回す。証紙は別の小版だ。通し番号は刷ったあと、一枚ずつ手で入れりゃいい」
「それなら?」
「……三日」
「三日!?」
ジークが素っ頓狂な声を上げた。
「勘違いすんなよ。三日で作れるのは、後世に残る芸術品じゃねえ」
クロウはニヤリと笑う。
「明日を繋ぐための、ただの紙切れだ」
その言葉に、僕は机の上の試作品を見つめた。
ただの紙切れ。
そうだ。金でもない、銀でもない、魔石ですらない。それでも——。
「十分だよ。今のノルデンに必要なのは、それだ」
僕は頷いた。
クロウは図面をガシッと掴み取った。
「よし。弟子どもを叩き起こしてきます」
「こんな時間に!?」
「夜中に人を呼び出しておいて、領主様がそれ言います?」
「……ごもっともです」
「紙工房にも伝えといてください。明日の朝一番で紙を回してもらう」
「分かった」
「そこらの偽造屋じゃ、割に合わねえと思うくらいの代物にはしてやりますよ」
そう言い残し、クロウは図面を抱えて部屋を飛び出していった。
閉じた扉を見つめながら、ジークがぽつりと言う。
「……三日で、金の代わりを作るのか」
「違うよ、ジーク」
「あ?」
僕は一枚のノルデン紙を持ち上げた。
薄い紙が、燭台の光を透かす。
グラスハルト草の銀白色の繊維が、淡く浮かび上がった。
「僕たちが作るのは、金じゃない」
「……じゃあ、なんだよ」
「約束を、形にするんだ」




