第64話 期限のない査察
数日後。執務室にて。
『特別査察官』として王都からやってきた人物を見て、カイルは密かに目を細めた。
「お久しぶりです、カイル殿」
黒い紋章官の服に身を包み、深く頭を下げたのは——かつて「監査」のためにノルデンを訪れた、『蛇の目』のヴェルナーだった。
「……久しぶりだね、ヴェルナーさん」
「……なあ、カイル」
後ろに控えていたジークが、そっと僕の袖を引いた。
「誰だ、あの人」
「以前、王都からノルデンの監査に来た人だよ」
「監査?」
「ノルデンが急に豊かになっただろう? 王都からすれば、短期間で税収まで増えた領地なんて怪しく見えたんだろうね。不正な金が動いていないか、税をごまかしていないか、帳簿を調べに来たんだ」
「へえ……。で、今回は『査察』だっけ?」
ジークはしばらく考え込んでから、眉間に皺を寄せた。
「……待て。監査と査察って、何が違うんだ?」
「今回に限って言えば、簡単だよ」
僕は机の端に置かれた王都からの通達を持ち上げた。
「前回は、僕たちが正しく商売しているかを調べに来た」
「おう」
「今回は——調べ終わるまで、商売そのものを止めろと言われている」
「…………」
ジークの顔が固まった。
「それ、全然違うじゃねえか」
「うん。だから厄介なんだ」
カイルは手でジークを静かに制すと、真っ直ぐにヴェルナーを見つめた。
「早速ですが、査察の手続きに入らせていただきます。王都財務院の通達通り、完了の報告が上がるまで、ルージュ豆および麦の領外搬出は固く禁じられます」
淡々と事務的に告げるヴェルナー。
ジークは拳を強く握り締め、怒りを押し殺すように歯かみした。だがカイルは静かに頷く。
「分かったよ。命令には従う」
「……真摯なご対応、感謝いたします」
「事故の起きないよう、うちの警備隊員に案内をさせるよ。何かあれば彼らに頼んでくれ」
「お気遣い痛み入ります」
「……ところで、一つだけ個人的に聞いてもいいかな、ヴェルナーさん」
カイルの穏やかな問いかけに、ヴェルナーがピクリと眉を動かした。
「……なんでしょうか」
「なぜ王都は、復興したばかりのノルデンから、これほど急いでさらに金を取る必要があるんだい?」
「っ……! それは、王立財務院が決めた国家の税制であり——」
「まさか、王都の財政に何か深刻な問題でも?」
「それは断じてありません!」
ヴェルナーの声が荒くなった。カイルの言葉を遮るように、鋭く言い返す。
「王都の財源は正しく管理され、適切に分配されています! 貴族や領主からの上納金は、国の防衛やインフラ整備、治安維持のために正当に使われているのです!」
「そう」
カイルは静かに微笑んだ。その瞳は恐ろしいほど澄んでいる。
「でもね。うちの警備隊長——ローグは、以前王都で暮らしていた。彼の話では、治安は隅々まで行き届いていたとは言い難かったそうだよ。路地裏には身寄りのない子供たちが溢れ、明日の食べ物にも困っていたと」
「そ、それは……都市が大きくなれば少なからず生じる影であって……」
「税を減免してくれていたことには、僕も心から感謝している。だからノルデンは自力で立ち直った。そして今、払うべき税も、増額分も含めて期日通りに払った。他領だって苦しい中で、払うべきものを払っている」
「…………」
「なのに……なぜ、真面目に払ったノルデンだけが、さらに流通まで止められて締め上げられるんだろうね?」
静まり返る応接室。
『蛇の目』と呼ばれるヴェルナーの喉が、引きつるように鳴った。
言い返すべき言葉を必死に探すように、彼の唇がわずかに戦慄く。
「……おっと。失礼。つい僕の悪い癖が出てしまったみたいだ。困らせるつもりはなかったんだ」
カイルがふっと表情を緩めると、ヴェルナーは膝の上でぎゅっと拳を握りしめた。
それ以上は何も語らず、ただ深く息を吐いて視線を落とす。
「……私自身、今回の『期日のない査察』には、納得できていない部分があります」
ぽつりと落とされたその言葉に、カイルは密かに息を呑んだ。
(この人は、ただの敵じゃない……)
だが、カイルが言葉をかける前に、ヴェルナーは静かに立ち上がり、深く頭を下げた。
「……カイル殿」
「ん?」
「私は、王都の命令に従う立場です」
「うん」
「ですから……査察を私の一量見で意図的に早めることも、終わらせることもできません」
「…………」
「それだけは、お忘れなきよう。……失礼いたします」
一礼を残し、ヴェルナーは部屋を辞していった。
静まり返った執務室で、カイルは背もたれに深く身体を預け、天を仰いだ。
(つまり——ヴェルナーさんを説得して事態を打開することはできない、か)
相手は王都の官僚。ルールと命令には絶対に従う。
正攻法の話し合いも、情に訴える道も、最初から塞がれていた。




