番外編 妻の小さな気づき
住宅問題の解決、木材確保の調整、そして収穫の秋。
職業紹介所や新しい工房が次々と動き出し、ノルデンの街は日に日に活気と熱を帯びていた。
……そして、それに比例するように。
(……カイル様は、最近本当にお忙しそうですわ)
街の通りを歩きながら、リーザは小さく息を吐いた。
朝早くから現場へ出向き、昼には職業紹介所で状況を聞き取り、夜は執務室で山のような書類と格闘している。
『街が豊かになっている証拠だからね』
カイルはそう言って無邪気に笑うけれど。
(……少しくらい、ご自分のことも大切になさってほしいですわ)
妻として、そして行政官として隣に立ちながら、もっと夫の体調や表情を見られていただろうか。そんな後悔とも申し訳なさともつかない思いが胸を掠めた、まさにその時だった。
(……あ。そういえば……)
リーザの足がふと止まる。
(もうすぐ……カイル様のお誕生日ですわ)
◇
——カイル様への誕生日プレゼント。
そう決めたものの、いざ店を回ってみるとこれが案外難しかった。
高級なタイピン。仕立ての良いネクタイ。上質な上着。
どれを手に取ってみても——
(……どれも、カイル様が素直に喜んでくださるお顔が想像できませんわ)
どうしても「飾り気のないあの人」に重ならない。
困り果てて小さな文具店に入ったリーザの視線が、棚に並べられた一本のペンで止まった。
職人が削り出した、手に馴染む木製のペン軸。
店主に促され、紙の上に走らせてみる。
「……まあ」
驚くほど軽い。
滑らかにインクが走り、紙の上を引っかかることなく滑っていく。
その瞬間、リーザの脳裏に浮かんだのは、毎夜遅くまでランプの光の下で執務机に向かう夫の姿だった。
(これなら……)
カイル様は毎日、信じられないほどの量の文字を書く。
領民への通達も、各工房への指示も、これからの未来を描く計画書も。
(ほんの少しでも……カイル様のお仕事が楽になれば)
リーザに迷いはなかった。すぐにそのペンを買い求めると、愛らしいリボンで包んでもらった。
だが——包みを大切に鞄へしまったリーザは、まだ家路にはつかない。
「……さて」
少しだけ頬を赤らめながら、彼女は街のメインストリートを歩き出す。
「次は……食堂へ参りましょう」
数日後の夜。
一日中現場を回ってヘトヘトになったカイルが館へ帰ると、執務室には灯りがともり、セムラ、ジーク、シュルツ、そしてリーザが揃っていた。
「……え? なに? なんでみんないるの?」
「カイル様」
セムラが静かに一歩進み出でる。
「本日は、何の日か覚えていらっしゃいますかな?」
「……えっ? えっ……あ、収穫量の中間集計の提出日?」
「違いますわ!」
リーザがぷっと頬を膨らませた。カイルは本気で困惑している。
横からジークが呆れ果てたように肩をすくめた。
「お前の誕生日だよ、カイル」
「…………あ」
カイルは間抜けな声を上げた。自分の手帳を思い返し、ようやく納得したように手を打つ。
「忘れてたのかよ!?」
「あはは……自分の誕生日なんて、気にする余裕がなかったよ」
苦笑するカイルの前へ、リーザがそっと近づき、小さな包みを差し出した。
「カイル様。……いつも領のために尽くしてくださって、ありがとうございます。私からの贈り物ですわ」
「僕に……? ありがとう、開けてもいい?」
「ええ、もちろんです」
丁寧な手つきでリボンを解く。中から現れた木目の美しいペンを手に取ると、カイルの目がパッと輝いた。
「軽い……! それにすごく手になじむよ。これならどれだけ書類を書いても手が痛くならないや。……ありがとう、リーザ。すごく嬉しい」
「……お仕事が、ほんの少しでも楽になればと思いまして」
リーザは胸を撫で下ろし、今度は大切そうに抱えていた小さな籠を机の上に置いた。
「そして、こちらも……私からですの」
「ん? それは……あんパン?」
「はい。ですが……いつものものとは少し違いますの」
カイルが手に取ってみると、ふんわりと香ばしい匂いが漂う。
二つに割ってみると、中から現れたのは小豆の濃密な黒ではなく、鮮やかな黄金色の餡だった。
「……ん? これ、なんだ?」
「あの……ノルデンで採れた【ボカチャ】を餡にしてみましたの。食堂のシュルツさんに教えていただいて……裏ごしして、少しお砂糖を加えて、ゆっくり水分を飛ばして……」
不安そうに両手を胸の前で組むリーザ。
「カイル様……あんパンがお好きですから……」
「…………」
カイルは一口、その黄金色のあんパンを頬張った。芋のやさしい甘みが、口いっぱいに広がっていく。
もちろん、前世で食べたあんパンとはまるで違う。
小豆でもない。自分の記憶にある味でもない。
なのに——。
(……美味しい)
僕がこの世界に持ち込んだあんパンを、リーザが知って。
この土地で採れたものを使って、僕の知らない新しいあんパンを作って返してくれた。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
「リーザ!」
「きゃっ!?」
言葉より先に手が動いていた。カイルはリーザの身体をぎゅっと抱きしめた。
「すごく美味しい……! ありがとう、リーザ! ほんとうに美味しいよ!!」
「カ、カイル様……っ! 皆様が見ていらっしゃいますわ……っ!」
真っ赤になるリーザ。
ジークはニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべ、腕を組んで見守っている。
「気にするなー。続けていいぞー?」
「ジーク!!」
執務室に弾けるような笑い声が響いた。
窓の外では、収穫を終えたばかりのノルデンの街に、温かな家々の明かりが灯っていた。
人が増えた。
仕事が増えた。
家が増えた。
そして今日、僕は十八歳になった。
(……来年も、こんな誕生日を迎えられたらいいな)
そんなことを思いながら、カイルはもう一口、リーザの作ったあんパンを幸せそうに頬張ったのだった。




