番外編 いつか、あの空の向こうへ
カンッ!
乾いた音が、ノルデンの警備隊訓練場に響き渡った。
「うおっ!?」
次の瞬間、ジークの握っていた木剣が宙を舞った。くるくると回転したそれは、少し離れた地面に突き刺さるように落ちる。
「……これで五本目だ」
「ちょっ、おい! 待て待て! 今のは反則だろ!」
「どこがだ」
「いや、だってよ! お前、俺が踏み込む前から動いてただろ!?」
「踏み込むと分かっていたからな」
「だから、それがどうして分かるんだよ!」
俺は木剣を下ろし、小さく息を吐いた。
目の前では、赤髪の青年が不満そうに地面を蹴っている。
ジーク。少し前にノルデンへ戻ってきた冒険者だ。
剣の腕は悪くない。むしろ、かなりのものだろう。ただ、動きが素直すぎる。
「肩が動く。視線も先に行く。お前は攻撃する場所を、わざわざ教えてくれているようなものだ」
「……マジかよ」
「それに、危険を察知できるからといって、すべて避けようとするな。避ける必要のない攻撃まで気にしていたら、本当に守るべきものを見失う」
「ぐっ……」
ジークは悔しそうに顔をしかめた。だが、すぐに木剣を拾い上げる。
「もう一本!」
「休憩だ」
「はあ!? まだやれるって!」
「俺は喉が渇いた」
「……お前なあ」
文句を言いながらも、ジークは素直に木剣を片づけた。
訓練場の端にある木陰へ移動し、水筒の水を飲む。秋の風が、汗ばんだ額を心地よく撫でていった。
「ったく……。元暗殺者ってのは、みんなそんなに強えのか?」
「知らん。ほかの暗殺者と訓練したことなどない」
「そりゃそうか」
ジークが笑った。
俺は水筒の蓋を閉め、空を見上げる。雲ひとつない青空だった。
「そういや、お前さ」
「なんだ」
「冒険者って、やったことあんのか?」
不意の質問に、指が止まった。
「……ない」
「へえ。意外だな。お前なら結構稼げそうなのによ」
「そうかもしれんな」
「魔獣相手でも、その動きなら通用するだろ」
「人間と魔獣では勝手が違う。……だが、戦ってみたいもんだな」
「奴らは手強いぞ? その上、知恵もある」
「ふん……」
俺が鼻で鳴らすと、ジークは水を一口飲み、どこか懐かしそうに目を細めて笑った。
「前にな、深い谷の底に眠ってる魔石を採りに行ったことがあるんだ」
「……谷? どうやって下りたんだ」
「下りるんじゃない。地上から『仕掛け』をするんだよ」
「……仕掛け?」
俺が首をかしげると、ジークは楽しそうに身を乗り出してきた。
「巨大な生の肉塊を用意してな、それを地上から谷底へ投げ落とすんだよ!」
「……肉を?」
「おう! 谷の底には粘り気のある魔石がごろごろ転がっててさ。上から叩きつけられた肉の表面に、その魔石がべったりくっつくんだ」
「……なるほど。だが、落ちた肉をどうやって引き揚げるんだ? ロープでは届かないのだろう」
「そこで、谷の上空に巣を作ってる『翼の生えた巨大な魔獣』の出番さ!」
ジークがニッと八重歯を見せた。
「肉が谷底に落ちると、餌だと思って巨大な鳥の魔獣が舞い下りて、魔石のくっついた肉ごと掴んで地上へ持ち運んでくるんだよ」
「……!」
俺は思わず息をのんだ。
「地上で待ち構えてる俺たちは、魔獣が肉を掴んで飛び上がった瞬間、魔道具を使って衝撃波をぶつける! 驚いた魔獣が肉を落としたところを、安全に回収するって寸法だ」
俺は思わず、その光景を想像していた。
底も見えない巨大な裂け目。
風を切って投げ落とされる肉塊。
谷底から現れる巨大な影と、青空を切り裂く風切り音。
魔道具の激しい光と、地上で繰り広げられる人間と空の魔獣との知恵比べ。
「俺はさ、 肉に魔石がちゃんとつくか確かめたくてさ。肉に自分の身体をがっちり括り付けて、ロープで一緒に谷底へ下ろしてもらったんだよ! で、魔石が粘着した肉ごと魔獣の足に引っ掴まれて、地上まで強引に引っ張り上げられたってわけだ。あの時は本気で生きた心地がしなかったぜ!」
「……正気か?」
「いやあ、今考えると二度とやりたくねえ無茶だったな!」
ジークが豪快に笑う。俺は思わず呆れ果てて、深く溜め息をついた。
「……よくそんなんで、今まで無事に生きてこられたな。冒険者ってのはみんなそんな奴らばかりなのか?」
「お? やけに食いつくなぁ。そんなに気になるか?」
ジークは面白そうにニヤニヤと俺の顔を覗き込んできた。俺が返事に詰まって思わず顔を背けると、彼は満足そうにポンと手を叩く。
「よし、じゃあ他の話も教えてやるよ! 次は砂漠の国の話な!」
ジークはノリノリで次の話を始めた。
「砂漠って知ってるか? 見渡す限り、砂、砂、砂! 昼間は焼けるみてえに暑いのに、夜は凍えるほど寒いんだ」
「……そんなに違うのか」
「おう。しかも、風が吹くと砂が舞い上がって、目の前も見えなくなる」
「街はどうしている?」
「でっけえ城壁に囲まれてるところが多かったな。砂漠の真ん中に、白い石でできた街があるんだよ」
「白い石……」
「そうそう。夕日が当たると、街全体が赤く染まるんだ。あれは綺麗だったぜ」
俺は目を閉じた。
果てしなく続く砂の海。白い街。夕日に染まる城壁。行き交う商人たち。見たこともない衣服をまとった人々。遠い国の、知らない景色。
気づけば、俺は次々と質問を重ねていた。どんな食べ物があるのか。どんな魔獣がいるのか。夜の空は、ノルデンと同じなのか。
ジークはその一つひとつに答えてくれた。知らない土地の話が出るたびに、胸が弾む。もっと聞きたい、もっと知りたいという気持ちが止まらなかった。
「……なあ、ローグ」
「なんだ?」
「お前のそんな顔、初めて見た」
「……は?」
ジークが、こちらをじっと見つめている。
「いや、いつも仏頂面じゃねえか。訓練のときも仕事のときも、全然表情変わんねえし」
「……悪かったな」
「でも今、すげえ楽しそうだったぜ」
「…………」
俺は思わず顔を背けた。
「……うるさい。仕方ないだろ」
口をついて出た言葉に、自分でも少し驚いた。だがジークは茶化さず、ただ俺が続きを話すのを待っていた。
しばらくの沈黙の後、俺は小さく息を吐く。
「……憧れだったんだよ」
「……何が?」
「冒険者に、だ」
口にした途端、遠い昔の記憶が蘇った。
まだ父が生きていた頃。母も元気で、弟と妹は今よりずっと小さかった。街を訪れる冒険者たちの話を聞くのが好きだった。知らない国、見たことのない魔獣、古い遺跡や山の向こうに広がる景色。いつか自分も、あんなふうに旅をしてみたいと思っていた。
「……子どもの頃はな、冒険者になるつもりだった」
「へえ……!」
「剣を覚えたのもそれがきっかけだ。強くなれば、どこへでも行けると思っていた」
自分の手を見下ろす。今では武器を握ることに何のためらいもない。だが、最初に剣を握った理由は、人を殺すためではなかった。
「……父が死んで、すべて変わった」
ジークの笑みが静かに消える。
「母は身体を悪くした。弟も妹もまだ小さかった。食べさせていくだけで精一杯だったんだ」
「……そうか」
「冒険者になるには準備も金も必要だ。依頼を受けたところで必ず報酬が手に入るとは限らない。怪我をすればそれまでだ」
家族を置いて旅に出るなど、考えられなかった。明日の食事を用意すること、母の薬を買うこと、弟と妹を飢えさせないこと。それがすべてだった。
「……それで、仕事を選んでいる余裕もなくなった」
俺は言葉を切った。その先はジークも知っている。
金のために人を殺した。命じられるまま誰かの命を奪った。排斥され、そして最後には、カイルの命まで狙った。
冒険者になりたかった少年が、いつの間にか暗殺者になっていた。
「……笑えるだろう」
「笑わねえよ」
即座に返ってきた言葉に顔を上げた。ジークは真剣な顔をしていた。
「家族のためだったんだろ」
「……だからといって、許されることではない」
「そりゃそうだろうな」
ジークはあっさりと頷いた。
「でも、だからって、お前が昔何を夢見てたかまで消えるわけじゃねえだろ。別に、諦めなくていいんじゃねえか?」
風が吹き、訓練場の隅で木々の葉がさらさらと揺れた。
「……何?」
「冒険者だよ。なりたかったんだろ?」
「……だが」
俺は眉を寄せた。
「母はまだ身体が弱い。弟も妹も、ようやく落ち着いて暮らせるようになったばかりだ」
ノルデンに来てから、家族の生活は大きく変わった。母は顔色がよくなり、弟と妹も毎日きちんと食事を取れるようになった。帰宅すると、二人はその日にあった出来事を競うように話してくれる。ようやく手に入れた穏やかな日々を置いて旅に出るなど、考えられなかった。
「それに、今は警備隊長だ。カイルから任された仕事を、簡単に投げ出すわけにはいかない」
「誰も今すぐ行けなんて言ってねえだろ」
「……は?」
「だからさ。今じゃなくてもいいじゃねえか。弟や妹が大きくなって、お袋さんも元気になって。警備隊の仕事だって、ほかの奴に任せられるようになるかもしれねえ」
「…………」
「そしたら、ちょっとくらい旅に出てもいいんじゃ
ねえの?知識も経験もあるお前なら、どこへ行ったってやっていける」
俺は答えられなかった。
「今まで家族のために頑張ってきたんだ。これから先、ちょっとくらい自分のために生きたって、罰は当たらねえと思うぜ」
自分のために。
その言葉が、胸の奥に静かに落ちた。そんなことを考えたのはいつ以来だろう。
家族を守るために生きてきた。金を稼ぐために働いてきた。罪を犯し、カイルに拾われ、今はノルデンを守るために剣を振るっている。
そのどれもが大切なことだ。今の仕事を嫌だと思ったことはないし、むしろ誇りさえ感じている。
だが。もしも、いつか。
家族が俺の手を離れ、それぞれの人生を歩み始めたなら。警備隊にも安心して仕事を任せられる仲間が増えたなら。
そのとき、俺は——。
「……ローグ?」
「……いや」
俺は小さく首を振った。
「何でもない」
「なんだよ。気になるじゃねえか」
「お前には関係ない」
「冷てえなあ!」
ジークが大げさに肩を落とす。その様子がおかしくて、思わず口元が緩んだ。
「おっ! 笑った!」
「笑っていない」
「いや、今絶対笑っただろ!」
騒がしい男だ。まったく、どうしてこんな男と訓練をすることになったのか。そう思いながらも、不思議と嫌な気分ではなかった。
俺は立ち上がり、木剣を手に取った。
「休憩は終わりだ」
「おっ、やるか!」
「次は、さっきのようにはいかんぞ」
「そりゃこっちの台詞だぜ!」
ジークも勢いよく立ち上がる。木剣を構えるその姿は、どこまでも自由だった。
外の世界を知り、危険を知り、それでも旅を続けてきた男。俺がかつて憧れた、冒険者そのものだった。
「……ジーク」
「あ?」
「また、旅の話を聞かせてくれ」
ジークは一瞬目を丸くしてから、嬉しそうに笑った。
「おう! いくらでも聞かせてやるぜ!」
「……そうか」
「次は海の向こうの話でもするか? あっちには、夜になると光る森があってな!」
」
「……訓練を始めるぞ」
「へいへい!」
再び、木剣の打ち合う音が響き始めた。
頭上には、どこまでも青い空が広がっている。その向こうには、俺の知らない国がある。見たこともない景色がある。
子どもの頃、いつか自分の目で見たいと願った世界が、今もそこにある。
俺はもう、あの頃の少年ではない。背負っているものも、守りたいものもある。だから、今すぐ旅に出ることはできない。
それでも。
いつか、そんな日が来るのかもしれない。
ジークの木剣を弾き、俺は再び空を見上げた。先ほどよりもほんの少しだけ、空が広く見えた気がした。




