第59話 卵を割る鍵
カイルは珍しく朝食もそこそこに、執務服ではなく動きやすい服に着替えると、書類を片手に領主館の廊下を足早に歩いていた。
「セムラ、旧市街区の古い地図は持った?」
「こちらにございます。しかしカイル様、朝食は……」
「あとで食べるよ。今は昨日の件を早く確かめたいんだ」
昨日見た、宿にも入れず途方に暮れていた家族の顔が頭から離れない。今日にもノルデンを去ってしまう人がいるかもしれないのだ。
「よし。行こう」
玄関へ向かおうとした、その時だった。
「おいおい」
壁にもたれていたジークが、呆れたように眉をひそめた。
「あんまり無茶すんなよ、カイル。朝飯もろくに食ってねえだろ」
「大丈夫だよ。旧市街を見るだけだから」
「そういう問題じゃねえって」
「でも、これは僕がやらなきゃいけないんだ」
カイルは足を止めた。
「昨日、困っている人たちを見ただろう? 仕事を求めて、家族まで連れてノルデンを選んでくれたんだ。それなのに、住む家がないから帰ってくださいなんて言いたくない」
「…………」
「だから、一刻も早く方法を探したいんだよ」
ジークはしばらくカイルを見つめていたが——。
「……分かった」
「ありがとう。じゃあ行こう」
「ちょっと待ってろ」
「え?」
ジークはひょいと踵を返した。
「どこへ行くんだい?」
「援軍呼んでくる」
「……援軍?」
数分後。
「カイル様!」
「えっ」
聞き慣れた声に振り返った瞬間——ぺしっ。
「痛っ!?」
額を軽く叩かれた。
そこには、食べかけの皿を手にしたリーザが立っていた。頬をぷくっと膨らませ、明らかに怒っている。
「リーザ!?」
「聞きましたわ」
「な、何を?」
「朝食もろくに召し上がらず、そのまま街へ出ようとなさっていると!」
ギクリとするカイルの背後で、ジークが何食わぬ顔で立っていた。
「……ジーク」
「俺は止めたぞ」
「告げ口したな!?」
「護衛として適切な判断をしただけだ」
「なったばかりなのに仕事熱心すぎない!?」
「カイル様!」
「はい!」
リーザに鋭く睨まれ、カイルの背筋が跳ねるように伸びた。
「困っている方々を一刻も早く助けたい。そのお気持ちは分かります」
リーザの表情が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「ですが、そのためにカイル様が倒れてどうするのです?」
「でも、時間が……」
「召し上がるまで、ここを動きませんから」
「え」
「なんなら——」
リーザがスプーンを手に取った。
「私が食べさせて差し上げますわ!」
「ええっ!?」
「さあ」
「いや、それはさすがに……!」
ジークが二人を交互に見比べ、ニヤニヤしながら口を開く。
「……俺、立ち去ったほうがいいか?」
「い、いい! 分かった! 食べる! 食べるから!」
「まあ」
ようやくリーザが微笑んだ。
「最初からそうなさればよろしいのです」
渋々皿を受け取り、勢いよくかきこむ。
「これでいいだろ?」
「駄目ですわ。もっとよく噛んでくださいませ」
「時間がないんだってば」
「ったく……」
横で見ていたジークまで呆れたように息を吐いた。
「ちゃんと食えよ。腹に入れりゃ何でもいいってもんじゃねえんだから」
「……え?」
「動き回るなら、もう少しちゃんと栄養のあるもん食わねえと身体がもたねえだろ。朝なら胃に重すぎねえもんで、それでいて……」
ジークがカイルの皿をじっと見つめたまま、急に眉間に皺を寄せた。
「……なんだこのスープ。やたら塩気が強いな。朝っぱらからこんなもん出したら、昼前には喉が乾いて体が重くなるぞ。……これ、もう少しスープの根菜を細かく刻んで煮崩せば、とろみが出て腹持ちも良くなるのに……」
「…………」
「……あん?」
静まり返る廊下。
カイルも、リーザも、セムラまでもが呆然とジークを見つめていた。
「ジーク……?」
「な、なんだよ」
「……ジークらしくないね」
「はぁ!?」
「いや。昨日まで『大型魔獣を三頭倒した』って自慢してた荒くれの冒険者から、朝食の調理法と献立のアドバイスをされるとは思わなくて」
「う、うるせえな! 俺だって外で野営続きだったんだ、食い物くらい……」
そこまで言いかけて、ジーク自身がふと口をつぐんだ。
自分の手元を見つめ、首を傾げる。
「…………」
「ジーク?」
「いや……」
自分でも何を言っていたのか妙に思ったのか、眉根を深く寄せた。
「……なんだろ。俺、今なんで『煮崩す』とか言ったんだ?」
「僕に聞かれても」
「だよな……」
ジークはガシガシと自分の赤髪を叩き——すぐにいつもの粗野な調子へ戻った。
「まあいい! とにかく食え、領主様。護衛初日に護衛対象が空腹でぶっ倒れました、なんてローグに知られたら、今度こそ俺が鉄の剣で斬られる」
「そこが一番の理由じゃないか!」
「バレたか」
「カイル様。お喋りしていないで、お食べください」
「……はい」
リーザに睨まれ、カイルは再び朝食へと戻った。
その横でジークは、なぜかまだ自分の手先を不思議そうに眺め、何度も指を握ったり開いたりしていた。
◇
無事に朝食を完食したカイルは、ジークとセムラを伴い、街の東側にある旧市街区へと向かった。
石畳を踏みしめるカイルの足取りは速い。
ノルデンが貧困と過疎に喘いでいた時代、住民が王都や他の領地へ逃げ出し、打ち捨てられた区画。そこには屋根が落ち、静まり返った古い石造りの住宅群が広がっていた。
「……使われてはおりませんが、大半はあばら屋ですぞ。今さら改修するとなると、新しく建てるのと大差ない費用と手間がかかるのでは……」
控えていたセムラが懸念を口にする。
「セムラ、新築じゃなくていいんだ。見てごらん」
カイルが一軒の家の前で足を止め、つたと苔に覆われた外壁をコンコンと強く叩いた。
鈍く、硬い音が響く。
「……この壁、まだ生きていると思わないか?」
屋根は崩れ、扉も失われているが、頑丈な花崗岩を積み上げた主壁と基礎部分は、長年の風雨に耐えてビクともしていなかった。
「ええ。確かに……基礎まで死んでいる家ばかりではございませんな。ノルデンは石材が豊富ですから、昔の家も強固に造られております」
「そう! 全部を壊して建て直すんじゃない。道路と同じで、使える骨組みを残して駄目になったところだけ直すんだよ!」




